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日本人のバランス感覚は質向上の余地があるという話(+アイデンティティの引き受け方+対二項対立の刷新+今始めるべき教育)

2022-5-004

個人であれ国であれ、主体(の働きとしてくくれる何か)は内在事情を持ち、かつ、外在事情にさらされているわけですが、

例えば、アイデンティティについて言えば、
内在の性質から代替可能な要素を削ぎ落し、かつ、外在に対して開きつつも、引き受けざるを得なさ偽装を解除し、偽装してないものに限って応じる、
という方針が貫かれてる時、そのアイデンティティは、

仮説と検証実験の関係で言うところの、具体化抽象化の精度最大化をもって、仮説の確からしさ向上最大化や改悪フィードバック最小化が果たされてる状態、この帰結に相当すると考えます。


つまり、近代以降検証実験が取り込まれてる理系の有り様も、アイデンティティも、抽象化具体化の不足を抑える先に解決状態
(表層形が確定的であれ不確定的であれ、選ぶに値する通用の行き渡ってる状態)があるという抽象像を、共通に持つ個々具体であるにもかかわらず、

重視するにせよしないにせよアイデンティティは、その抽象像と関係ない位置づけが為されてきた、もっと言うと、疑似問題のフィルターを通されてきたわけです。


そしてそれは、高い教育を受けた人でも同じである事は、自我(内在的問題解決スタイル)と文化(外在的問題解決スタイル)の上下論や、
感情(内面場の割り振りの産物)と理性(局面に合わせる能力以上の位置づけを与えられてきた)の上下論を、
高学歴の人なりにけん引してる事例が普通に見られる点も明らかに思われます。

文系者はその抽象像を持たない(理系に水を開けられてる)自分や、持たせない既存の教育に疑問を持つべきだと考えます。
(理系者も文系的事情と無縁ではいられない、つまり、同種の他との共通要素を捨象する方向に確からしさを見る次元の臨まないわけにはいかないので、他人事ではありません。



例えば、感情と理性を二項対立で見るにしろ、
どちらが上であるとか、どちらも大切であるとか、一方が優位である時に他方を擁護するとか、(一方を攻撃されたときに他方を飛び移る飛び石にするとか)、そういった話に落とし込むのではなく、

両者が疑似でない時(内面と局面、それぞれの場で場の疑似でない固有性、代替可能な要素を削ぎ落した固有性に即した割り振りが為されてる時)、
両者(抽象物と具体化条件の関係)の統合体は、選ぶに値する通用の行き渡った状態であり、

その統合体の表層形においてどちらがどの程度優位にあるかは局面次第である為、
表層形自体に拘ってると、表層に確からしい内実を持たせる事はできない、との理解に落とし込むべきと考えます。


同様に、真面目と不真面目を二項対立で見るにしろ、
どちらが上であるとか、どちらも大切であるとか(生真面目性と不良性の同時持ちに挑戦するとか)、一方が優位である時に他方を擁護するとか、(一方を攻撃されたときに他方を飛び移る飛び石にするとか)、そういった話に落とし込むのではなく、

場に合わせてるという表層形や場に合わせてないという表層形、それら自体に拘るのを止め、
場の本質に合わせた結果、場を荒らす(その程度も場の本質と整合させる)という表層形や場を荒らさないという表層形になるだけ、

つまり、場の上に立ち上がってるものは場の疑似でない固有性、代替可能な要素を削ぎ落した固有性の発現を損なわないように組み上がってる時に肯定される、との理解に落とし込むべきと考えます。


こうした修正を、脱構築含む、既存の対二項対立に対して展開する事で、中庸なりバランスなり曖昧さなりが、都合の確保に利用される事態となるのを防げる
(それらに関する、内実の確からしいものと内実の確からしくないものの混同状況、ひいては、搾取可能状況を作らせずに済む)はずです。
(どうか分かってください、千葉雅也さん。)


内実の確からしくないものを取り除くという質向上の処理を、日本人のバランス感覚にも(潤滑油のようなイメージレベルから)持ち込み、
ひいては、秩序有り様における都合の押し付け合いの強弱から成る側面を弱めるべく

(理想を割り引く程度の過不足は、理想か現実のどちらかに負わされるに値しないものを負わせる事を意味しますが、
その秩序側面を弱める程、負わされるに値しないものを負わされるもののない世界、という理想が負ういらぬ割り引きを小さくできます)、

小学生の一年生から、大騒ぎする程度の大小や見て見ぬ振りする程度の大小を、状況の性質に合わせるよう促す教育をスタートとして、
同種の他との共通要素を捨象する能力の養成によって、問題解決に対する抽象化具体化の不足を抑える精度が高い、
したがって、問題の疑似化(過大評価や過小評価)に陥りにくい人を育成する教育を、今から始めましょう。



そもそも既存の教育論が第一歩から取り違えを抱えてる原因として、
幸不幸の良し悪し不確定性と同じ構造を、できるできないに対して見てない、ケアの必要性に気付いてない点が挙げられると推測します。

井の中の蛙状態から一歩外に出る度に、良し悪し自体や良さ悪さ程度が反転する可能性がある以上、
実際とは逆の評価を基に、つまり、誤った情報を基に生を紡ぐ形になるわけで、

この事態を修正対象である低通用状態と捉え、
せめて良し悪しにおける後者でも、自分が自分である限り引き受けざるを得ない、という形へと持ってくべく、その為に必要な、引き受けざるを得なさ偽装の解除を可能にする、

有限(内外境界の発生)の与件性と有限性に対する現状可能なだけの代替不可能化、この二つから成ってる状態との乖離が大きい程、
その引き受けざるを得なさの内実は確かしくない、という評価基準を持つ事が要請されてると捉えましょう。


教育論も、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像と、情報なり能力なり可能性なりの獲得するしないとを、
整合させる内容に替えましょう。

つまり、冒頭で見たアイデンティティの引き受け方が主流でない(先に見た例での前者的落とし込みの下で語られていても修正されない)のは、

本筋でない、良くて次善の策でしかない既存教育論を、
次善の策以上の扱い(余裕の有無と関係ない扱い)でもって押し付けてきたこれまでの教育者達、
及び、次善の策以上の位置づけでもって受け止め乗っかった被教育者達の結果とも言えるわけです。

もっと言うと、余裕の有無含む、局面の性質について、差異に鈍感でも修正されない環境、
局面の上に立ち上がってるものを局面の疑似でない性質との整合度で評価する基準を持たない環境が原因と言えます。



それは局面の疑似でない性質次第です、それは主体が抱えてる疑似でない事情次第です、判断選抜もフェア(各場の疑似でない固有性と着目無視とが合致)な方が結果を負うにも納得できます、

この種の指摘が取りこぼしなく持たれる方向に文系空間や文系教育を変えましょう。
(この変革を目指す文系改革党にご賛同いただけましたら、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。)

ご支援の程よろしくお願い致します。