見出し画像

1877文字、表層形反転という反応特徴は、有害でありながら、哲学でも疑問を持たれなかったりするので、対処に自覚的であるべきだろう的な話

2023-4-003

Aに従属してない状態を、Aと関係なく(例えば、単に場での割り振りが妥当なので引き受けただけなどで)Aと同じ事をしたり同じでない事をする、という内実的に捉えてる立場からは、
同状態を、Aと同じでない事をしてるという見た目の問題として捉えてる反応は、表層次元に囚われて論理性を欠いてる事態に見えるのでないかと思います

(ちなみに、内実の確からしさを優先して表層形に拘らない、という有り様には、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存の見せる反応自体に対する肯定と、その反応への場の疑似でない固有性に整合的な扱いに対する肯定が自他の別なく、
また、抽象化具体化が不十分でない理想現実関係の現れとしての現象に対する肯定が時空の別なく、期待できると考えます)。


つまり、反抗期はもちろん、内外の個別性検討欠いた内外上下論な自由観や、場に合わせる合わさないの二択
(場の疑似でない固有性と整合的な部分以外も肯定する過剰肯定、整合的な部分まで否定する過剰否定の二択に他ならず、
損得なども当然、整合的な割り振りと言える場合のみ受容に値するという話にはならない)縛りな解決観等、

分断という見た目自体に意味を見出す(近代始点の成功体験への固執込み)類の知性なり倫理なり美意識なりは、単純には論理性欠落の解消問題の対象に思われますが、

しかし、ある領域では後者的に捉えてる人が、別の領域では前者的に捉える事もあるパターンの方が多い可能性を疑えますし、
実際、宗教次第では奴隷状態について(奪う奪われる現象自体の発生否定としての、受容に値する状態追求でなく)そこからの立場反転が刷り込まれてもおかしくないなど、
表層形反転への誘導が存在してる領域も十分想像できるわけですから、


個人の内面世界と自国社会と国際社会を同じ場として、また、同じ原理(場に置かれるものと管理ポジションとが、
場の疑似でない個別性保障という目的で繋がる秩序)が適用されるものとして捉える事に失敗してるせいで、
人権主権の対立構図が未だ主流であるなどの事例と、

同じ構造の問題(具体化精度確保という同じ論点持つものとして抽象化できる認知の、文系域における不在という問題)として解するべきなのでないかと疑います。


そもそも、受容に値する状態を、内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらのみから成る状態と見れば、

代替不可能な要素の取り出された内在性質外在性質から成る現象、
文系的局面(個別性が根拠になるという外在性質)では同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の産物意味するそれへの、志向を持たないこれまでの文系空間は、

受容に値する状態にまで持っていけてない段階のものを受容するというぬるさ
(例えば、そのような受容を積み重ねてる生なり、積み重ねた結果に手に入れた諸々なり)を、何らかの権威用いて正当化してきた

(失敗とか間違いとかできないとか割り引くとか、そうした有限性を受容に値する状態にまで持ってく話になってないので、
帰属修正余地のなさを目指す働きが上限化されてる下での、したがって、奪い合い世界に参加してないと言える類の経済活動、政治活動、社会活動等から見て、
矮小化されたものがまかり通る原因になってきた)と言えるわけです。



なので、受容に値する状態へと、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像(現実の複雑さへの通用が問われるべき仮説)である理解や実力を、抽象化具体化の交互反復である歴史やその先端である現有り様を、
持ってく働き(抽象化具体化の不十分さ解消)が文系空間でも機能するよう、

余裕のない局面では成立自体を、余裕のある局面では成立の内実確からしさ(同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さの解消)を重視する量質推移構造の不在
(特に、内実の確からしさ求めない対損得が常態化してる生)や、

仮説への改善フィードバックの上限化に必要不可欠な具体化精度確保(高精度の検証実験に相当するもの)の不在
(特に、アンフェアによって通用してる事にしてしまう言わば改ざん研究者な生)が、

対象の有り様(自身についてのシミュレーションも、概念の用いられ方も、欧米文系の仕事も込み)に確認されるか、まで含めて対象理解とする理解観(既存教育とは不整合)をもって、

権威の付され具合によらず文系事象と付き合っていく方針(代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映、
そう言えない部分まで肯定する過剰肯定とそう言える部分まで否定する過剰否定との同時抑制配慮)を文系者に求めていきましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。