不当な扱いを糾弾する際の説得力を大した理由なく下げない為にも、持っておくに越した事ないと思われるものについて(800字ほど付け足しあり)
2020-9-004
経済における新しい主義思想に関するスレへの投稿内容:
Aが限定通用的な代物である事がBの登場により判明したので、通用が行き渡ってる状態(Bにも通用してる形)のCへと修正した。
この構造自体は、Dさんの意外な行動見てDさんに対する理解を改めた(仮説が修正された形)等の日常的処理と何ら変わらないわけです。
また、歴史性にはそういう確からしさ向上だけでなく、
使われる使われないの実態反映して言葉の意味合いやニュアンスがずれてく的な、場との齟齬解消
(場に通用させるという存在性自体は、場の表層的要素込みでなく代替不可能な固有性にのみ合わせる、という質確保までは保証してないとはいえ)としての確からしさ確保の面もあるので、
そこまで含んでる、具体と抽象の間の行き来としての歴史性(抽象具体の価値対等)の中の、一特殊形としてヘーゲル的歴史性は扱ってしまうべき(対ヘーゲルを抽象具体の上下論踏まえた反転に頼る必要なし)でしょうし、
向上と確保、どちらの側面が強く出てるかによらず、その行き来自体に、
抽象化や具体化の精度だけを問題にする視点(現行の世界標準知性は、捨象対象が局面要請と必ずしも一致せず偏向気味な為、低精度領域がそのままとなってる主因)と、
抽象化も具体化条件割り出しも精度が最大化されてる変遷や展開に限ってOK(望ましくなさも引き受けざるを得ない形に落とし込まれてる扱い)とする態度を組み込めば、
理想状態への一足飛びや固執など、進歩史観リスク(被限定含めた望ましくなさへの、表層反転反応)も、
行き来の質(抽象化や具体化の精度)を尊重しなかった歴史性の産物としての現アイデンティティや現身体性の盲信的な根拠採用(引き受けざるを得ないもの化する作用が阻害されてきたケースを、阻害されなかった成果物と大した理由もなく同等に扱う不当性)への鈍感さ(問題意識欠如)も抑えられる理屈です。
全面的に通用してる(そのレベルで確からしい)ものかのように、実際には限定通用的なものを扱う不当な扱いを避け、限定通用的なものをあくまで限定通用物として扱う(その意味で距離を取る)というのであれば、
先のCにもAと同じ事態が起き得る可能性に閉じてたり(仮説の実証に相当するもののフィードバック作業に阻害的等)、歴史性の質を問わずに現在性を盲信してる有り様も、限定通用物として扱うのでなければ恣意的な話になる、
つまり、ご都合主義的な話をそうでないかのように扱う不当な扱いを意味してしまうと思います。
不当な扱いを糾弾する際の説得力を大した理由なく(ご都合主義の次元に話を落とす形で)下げない為にも、そのような事態は避けられるに越した事ないでしょうし、
先の抑制は、付け込まれる隙(妥当でない利得に道が開かれてる事態)が生じる生じないへの敏感さ(としての着目無視)の具現でもある為、
不当な扱いを許容しないという有り様には、上の意味での拡張的歴史観が要請されてると考えて良いと思います。
また、経済で言うと、具体化条件は需給事情でしょうから、具体化条件割り出しの精度問題には、
場の性質(需給事情)と齟齬のない体系(例えば、役回りなどの割り振りを規定してる構造)の立ち上げ(具体化条件からの乖離引き起こす要素の混入阻止)に加え、
需給事情を構成してる個々事情の内、フェア志向を反映してる事情の割合が低いほど、ドーピング選手の金メダル的な茶番状況(実質の欠落をそうでないかのように負わされる状況)は強まると見て、
その場(内面や局面など)で問われるべき差異と実際に問われてる差異の間にずれが生じるのを良しとせず、見出す事もできる人を増やす、という内容まで含まれてると見るべきです。
ただ、その枠組みに個々事情直接反映システム(市場や民主制)を落とし込む際のネックへの対策として、次の二つは内容的に同じ話であるとの周知の必要が想像されます。
需給事情の実態を構成してる者達に代わって需給事情(実態の反映としての社会変遷の代わりも)を規定する者を用意する方向性が持つリスクを、
上のような人を増やす(エリートはエリートなりに、大衆は大衆なりに上で言う差異間のずれを抑える方向をもってエリート対大衆の構図の悪用を防ぐ)事により、できるだけ取らずに済むようにする。
(有限者は己の有限性の、注力傾向の検討踏まえたこれ以上無理という境界を探る的、代替不可能化以上のものを望んで大騒ぎする必要はないと見て、
割り振られのような、有限性の形を確からしいものにしてくれるフェアを、社会のどの方向からも支える世界に向かう。)
内在の性質と外在の性質が合わさって現象になる、という現象観を採用する事で、
(感情を加工無くそのまま表出するケースも、それが許される局面だったかそう勘違いした内在外在統合物と見なすなど、)
外界から受ける限定作用を前提と捉え、自由や解決も、
できない事をできてるつもりになるだけの、限定作用を避ける事が可能かのような方向(望ましくなさへの表層反転反応であり、質を確保しつつ歴史を紡ぐだけの我慢が利かない現れ)でなく、
引き受けざるを得ないとは言えない部分に
(そこの許容は、原理の不在や非提示と同等な、事実上の何でも有り事態、ひいては悪用される隙発生への鈍感さ、つまり、不当な扱いへの理解が抽象不足から表層的である事を意味すると見て)付き合わない
(場の本質に即してる体系なら引き受けるし、即してない部分があっても具体的反応は己の資質や環境の代替不可能な性質次第とする)方向を内容とする。
(否定肯定の差を、その現象観での両性質において質が損なわれているいない、つまり、代替可能要素まで代替不可能要素扱いされてるされてないの差とし、
されてるほど現象や歴史構成は形骸扱い、例えば、表現にせよ進歩にせよ張りぼてをそうでないかのように誇ってる扱いとする。)
ご支援の程よろしくお願い致します。