見出し画像

4155文字、欧米文系の権威化の保全に与するのを止め、文系空間を既存パラダイムから解放しましょう(自由平等にも言及)

2023-7-007

欧米文系の産物(同種の他との共通要素捨象に意義を認めてないなら日本産でも同じ)を真に受ける(まき散らしに加担しさえする)のはもう止めましょう。

例えば、内在不問外在軽視な通念的自由観(有限の与件性から見て世界に備わってると推測される限定前後関係に対し、
当該主体の内在事情が限定条件になり得ると思える類について、実際なってると言えるか気にする一方で、主体の内外境界設定に恣意性を許容してる問題像)も、
主体の内実確からしさの差異を無視する通念的平等観(局面と着目無視の合致が論点でないなど、
同種の他との差異要素捨象における捨象部分設定に恣意性を許容してる問題像)も、



有限の与件性レベルの強さ持つ受容せざる得なさを、主体の有限性形態が持ってるかどうかで、
扱いに差がない(内実が確からしいかどうかと関係なく表層形のみで扱いが決まる)場合でも帰属操作に繋がらない量文脈と、

帰属操作(実験精度の低い実験結果を反映させた仮説に対する、高精度ケースのごとき扱いを強いられる的事態)に繋がる質文脈とがあるにもかかわらず、
上の意義の否認のせいで量文脈と質文脈の二層構造という図式すらない、量文脈一辺倒なパラダイムの産物であって、

欧米文系の権威化を保全する有り様はこのパラダイムの弊害の保全に等しい(熱心さも比例してる)わけです。


また、個別性を保障するという文脈が、自由系(まとめ上げの拒否)であれ平等系(軽視ポジション発生の拒否)であれ、
内実無検討故に疑似化してる個別性を保障するのに利用されてきた(個別性捨象と個別性内実無検討とが同時に否定対象にならない、
あるいは、客観と主観との間、理性と感情との間、明晰さと曖昧さとの間の上下論の類の外に出る為の質文脈への移行が生じない)のも、

個別性が根拠になる局面と着目無視設定との合致が、同種の他との共通要素の捨象、局面と着目無視設定との合致、
この両者の相補関係の不在故に論点にならない、という既存の文系空間の傾向性故と推測します。



ここで、代替不可能な内外事情にしか応じない実存は、外在場の疑似でない個別性に即させる整合への支持を含んでると言える
(外在場を尊重しない者の内在場尊重は、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在が言える)、

もちろん、外在場の疑似でない個別性を損なう形で外在場の上に立ち上がってるものを肯定する妄信系にも、
損なわない形で外在場の上に立ち上がってる部分まで否定する反動反発系にも、
修正余地を見出すという内容の、秩序有り様や存在有り様に対する受容条件を含んでる


(個人と社会との間の上下論を踏まえた諸々も、質文脈への移行ルートを持たない為に通念的自由と通念的平等との間の上下論の外に出られない知性倫理美意識の実践と同じパターンの現象であり、
国と国際社会との間の関係も含めた、内在場と外在場との間の上下論、さらには、自他の肯定否定に同じ観点が齎される事にもなる、場の尊重の個々具体としての内在場外在場という像、

続けて、場の性質の疑似化許容という場の尊重の形骸化と見なせる事態を防ぐものとしての、場の性質に関する質文脈へと、
話を抽象化する事に失敗し、抽象不足の分だけ通用領域の狭い原理に真善美を閉じ込めた結果の産物とも疑えるので、
人権主権の通念的関係像はじめ、その種の対立構図を踏まえた実践に陥る事はない)

と言える為、民主制や市場に限らず、主体個々の事情が場の性質有り様に関わってる部分についての、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の割合最大化への志向まで含む。


さらに、その実存を生きる方針は、有限の与件性レベルの強さ持つ受容せざる得なさをもって理想ポジションと対峙してる現実
(理想が受ける割り引かれを、その理想にとって受容に値するものにした状態の現実、
当然、理想ポジションに置いたものに対する尊重してるとの言も形骸化しない現実)の採用でもある為、

真善美を過剰に割り引く認識場(自身の有限性を代替不可能化してない状態で為される認識処理)において選抜された対象位置づけに対し、その過剰部分だけを否定対象として取り上げるのではない
(もちろん、認識場の性質がその実存を生きてきた帰結かどうかと関係なく認識場の表層を拭うだけの実態露呈推奨と言える現象学系にように、

真善美そのものからの乖離を、代替不可能な有限性の反映と言える部分込みで受容したり拒絶する価値体系に整合させる働きであれば、個別の哲学であれパラダイムであれ該当する)、
との意味で過大要求過小要求が生じてる対自他(負わされの不当性把握と負わせへの不当性除去としての対歴史の機能不全も込み)の集積空間からの知性倫理美意識の解放への志向も含む。



以上を認め、文系事象の理解に際して先の二層構造を、および、質文脈で要請されてる自由平等の中身としてその実存
(を主体に拡張した像、あるいは、内在場外在場の疑似でない固有性への尊重に拡張した像)を、
採用しましょう(採用してる文系的言動と採用してない文系的言動との間の評価差へと、論理性についての既存の有無評価を上書きしましょう)。



注1

我々にとって疑似でない問題解決(注、意識は注力的問題解決、自我は内在的問題解決スタイルと見なす)と言えるのは、
抽象化具体化の交互反復(から成る同一性変化性関係)としての展開性(文系事象においては同種の他との共通要素捨象が用いられたそれ)が既にあって、
その抽象化具体化(例えば、理想現実関係を、主語や述語や意味が切り出される際に為してる処理をこう捉え直した際)の不十分さ


(特に、同種の他との共通要素捨象と差異要素捨象の局面に合わせた使い分けの不在から、
内実の確からしさへの評価を表層有り様への評価に先立たせられず、いらぬ特化の回避が試みられようとも表層洗練の域を出ない為、
過剰成立およびそのフィードバックに対し事実上忌避不能な知性倫理美意識の産物)を、

十分と言える状態に持ってく事だけ(質文脈が要請されてる局面で量文脈が採用されてる事態を、質文脈の採用状態に修正するのもこの一種)というイメージです。

(ちなみに、不当合理と単なる実態露呈は、どちら向きの矢印で差し替えるのであれ、
もちろん、その差し替えが物象化、技術依存への対処を謳っていようとも、表層洗練で満足する地平の外に出ないと考えます。)


この場合(十分と言える状態である事をもって受容に値する、言い換えるなら、
存在の前提だろうより確からしいものが取って代わる運動性なり、認識の前提だろう通用領域の広狭と確からしさとの相関なりが、次元設定という限定作用の不備による形骸化を免れてると見なし、

対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像に過ぎない実力や理解は、具体形パターン網羅における量文脈についてすら、帰納の正当化限界に相当する不十分さが言えてしまうのだとしても、
特化具合などの有限性形態に関する十分と言える状態に相当する例の実存の下で具体化されてる不十分さは、その時点での十分と言える状態と見なす立場)、

自由や平等に関するどんな実践も、量文脈一辺倒な内容の自由概念や平等概念が用いられてる限り、
疑似化してる対歴史や対論理の産物である、との位置づけになり続ける事になります。(創作も同じ構造でないかと想像します。)


注2

量文脈一辺倒な平等観は、個別性(仮説でしかない)を根拠に振る舞う、かつ、Aさんの個別性は内実が確からしいのにBさんの個別性はそうでない、
この種のパターンに通用してない点で実力不足である(具体形パターンを網羅できてない)と認めるとして、

次のような理解群から成る枠組みに一応落とし込む必要がある(どんな対象否定も、通用領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえてるわけで、
この相関をどのような観点の下で持ち出すのかについての通用性向上に必要である)のでないかと思います。


強者偽装も弱者偽装も加工なわけなので、余裕がない時の次善の策が余裕生じてなお居座ってるといった、局面事情と加工具合とのズレ(この意味での加工過不足)、
さらには、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と実際とのズレが糾弾対象である分には、人の有限性を軽視した過大な要求ではない。

理想を割り引く現実という関係にその実存を据えないと、真善美なり存在性なりを過剰に割り引く表現者になってしまう
(チキンレースでの即離脱的イメージに近いケースまである)点をもっての表現批判である分には、やはり過大な要求ではない。

仮に糾弾表現が過大要求を含んでいたとしても、糾弾者がその実存を生きてる結果なら問題ない。


注3

対人や対作品での印象も仮説でしかないけれど、印象獲得のような無意識的処理であろうと、
対象がこういう原理を持ってると言える言えないについての判断では認識者の、

代替不可能な内外事情にしか応じない実存(存在するのと引き換えかのように偽装してる形の内外境界線を外界に負わせる程度に対する、
コントロール内外などの内外境界線設定からの恣意性の除去によって為す低減の実践でもある)から乖離してる具合、
言い換えると、同種の他との共通要素捨象に内外事情が十分にさらされているいないの差異でもって、

持ってると言える仮説自体が持つ通用性(存在する以上は引き受けが避けられない性質を取り出せてる程、つまり、有り様原理の疑似化程度が低い程、
雨が降ろうが槍が降ろうが関係なくなるわけなので、限定通用性から解放されてる)を評価する際には対象のそれでもって、確からしさが決まる為、


認識者なり対象(時代やその変遷も当然該当し得る)なりに、理系的局面での対仮説でもないのに同種の他との差異要素捨象を持ち出してる事態が見られる場合、
外在事情への反応に関して乖離が見られる点から低確からしさが意味されるのに、

文系教育や文系学問のパラダイムは未だ差異要素捨象特化なので、文系空間に対して我々は、
(表層をどれだけ着せ替えようとも、表層の着せ替え案がどれだけ提示されようとも、局面と着目無視との合致への志向が先立たない限りは)低確からしさを見出すべきでしょう
(もちろん、具体的反応は上で言う恣意性除去な実存を条件とする具体化推奨です)。

ご支援の程よろしくお願い致します。