◇不確かな約束◇ 第7章 上
疲れた。たとえ広島からは近回りの福岡でも、ペーペーの営業の俺が出向く出張。一人で行ったのは初めてだった。泊りではないので、帰りの新幹線で、佐伯さんに連絡した。
駅に車で迎えに来てくれた彼女と、まるでデートコースのような、夜景のきれいな幹線道路を走って、瀬戸内の海が見える展望台で話した。
ぼうっとかすむ内海に、島が点々と見える。映画で見たことあるよな、この景色。疲労と、妙な高揚感を感じていた。気がつくと、いつになくしゃべりまくっている自分に気がつく。
つまんなくないですか、俺、すいません、と言いかけて、今日は髪をあげている彼女が、笑顔で首をふっているのが目に入る。
「よくやってるよ、武本くん。去年の私より、ずっと立派。」
そう言うと、佐伯さんは海の方を向いた。珍しく髪を束ねているので、横顔がよくわかる。こんな優しい線の顔立ちなんだ。ちょっとサチに似てね?
そう思ったとたん、俺は佐伯さんを後ろから抱きしめていた。抵抗しないので、俺は自分の頭を彼女の華奢な肩にのせる。
「佐伯さん、俺、佐伯さんと、、。」
寝たい、と言い終わらないうちに、かぶせるように、彼女が、はっきりした声で俺に聞く。
「武本くん、私のこと好き?」
佐伯さんは、俺が勤める造船会社の1つ上の先輩だ。俺は大阪の大学からだが、広島出身の佐伯さんは、地元の大学に行ったらしい。だから、知り合いも多いし、広島中に親戚もいる。
東京出身の俺には、こんな田舎が「故郷」なのは、ほんとに故郷らしくて、うらやましい。そして、誰かが周りにいることも。
仕事を始めた頃は、毎日のように後悔した。東京に戻って就職すればよかった。大阪で、堀さんやユウコさんといっしょに働いてたってよかったのに、と。
佐伯さんは、広島でしか暮らしたことがないのが、ちょっとコンプレックスなんだそうだ。でも、ふだん会社で会う時には、コンプレックスも何も感じたことはない。まじめで有能。
セミロングの髪をさらさらと垂らし、派手さはないが、できるプラスちょいそそる女、という感じ。先輩じゃなかったら、もっとタメ口きけるのに。
俺の勤める広島の会社は、造船だけあって、海の見えるところにある。よそものの俺から見ると、広島の町は、全部海沿いにあるような気もしてしまう。
だって、地図で見ても、そうだし。瀬戸内海にべったり横長で。「この世界の片隅に」の舞台みたいな。どの建物からでも見えるわけではないが、展望台とか、レストランとかは、海が見えるようなところに立地したりデザインしたりしてある。
営業の仕事をしている俺と佐伯さんは、帰りに飲みに行ったり、遅い夕飯に連れ立って行くことが、時々あるようになった。他の人がいっしょの時も、二人だけの時もある。
就職しても、親元から通っている佐伯さんは、それが、家ではできないストレス発散になると言う。俺は、ずっと一人暮らしなので、時には、家に誰かいて、話を聞いてくれるとか、飯を作ってくれてるとかは、その方がストレス解消になりそうだが。
ま、俺もあのまま東京で大学行ったり、戻って就職してたら、親と住んでたのかも。経験してないことは、わからない。
今日は、出張でテンパってたのが折れたのか、帰りの新幹線で、なんか心もとない気がした。乗り越して、大阪まで行ってしまおうかとも思った。明日は休みだし。佐伯さんに私信でLINEを送った。
ちょっとだけ会ってくれませんか。
いいよ、と返事がすぐきた。どこで?と書いてあった。やった、俺?タメ口使わずに、タメ口の関係になれそう?
質問だけして、佐伯さんは何も言わない。頭をあげると、髪を束ねた白黒のシュシュが、目に入った。
「いや、俺。」
俺は口ごもる。
「わかんないっす。」
緩めた俺の腕からすり抜けて、佐伯さんは俺を振り返る。俺をまっすぐ見て、少しだけ口元をゆるめる。
「正直だね。」
「佐伯さんは?」
「私も。わからない。武本くんが言うからじゃなくて。でも武本くんがそう言わなかったら、私も同じように答えてたかも。」
「でも、俺、佐伯さんのこと好きになるかも。もう好きかも。」
「うん。」
自宅からちょっとだけ抜けてきた、という風情の佐伯さんは新鮮だ。職場で見る佐伯さんは、きちんとといた髪を下ろしていて、こんな無造作に束ねたりはしていない。俺の目線に佐伯さんが気づく。
「あー、これ?変?こんな風に上げると?」
「いや、でも、今日は、いつもと感じが違うなと思って。」
「さぼってるみたい?ええんよ、ええんよ。田舎の子じゃし、私。広島の子じゃし。」
佐伯さんは海を背に笑った。
「誰かつきあってる人いないんですか。」
俺が聞くと、佐伯さんはすぐ答えた。
「うん、今は。」
そして、ケラケラと笑った。
「続かないん、私。」
佐伯さんは話し出す。
一番続くかなと思ったのと、去年別れた。おんなじ大学で、結婚もするかなともちょっとは思っとったけど。でも、仕事で東京行ったん。だいたい、この辺の子は、東京出るんよ。関西に行くもんも多いけど。学校の先生とか医者になるとかいうのは、ずっと地元だけど。
みんな東京行きたがる。ドラマであるが、地方から東京行って、おしゃれライフ満喫って。あんなん、ほんとじゃないよなあ。でも、みんな憧れて出ていくんよ。
うなずく俺に、佐伯さんは続ける。
その子好きだったけど。お盆で帰省した時に、女の子の話す広島弁は汚いなって言われたん。東京の子はそんな喋り方しないよって。そう、その言い方で。それ聞いたら、もう嫌になった。誰かとつきあうって、がまんしてすることでもないし、それで、さよなら。
私、違和感あることちょっとでもあったら、もうダメなん。と言っても、もともと長距離ってとこで、もう信じてなかったし。広島だけだって、何万人も男がいるのに、たまたま出会ったくらいで、がまんして引きずられるのは違うと思って。ほかのことでは、その人のこと、まだ好きでも。変かな、私。
いや、と言おうと思ったが、俺の口は開かなかった。
佐伯さんの髪を束ねているシュシュを見たから?仕事疲れ?のぼせたせい?抱きついてしまったせい?海に向かって、2人で立っているせい?
俺も、高校3年で別れた人に、複雑な気持ちを持っていると言おうかと思った。故郷を離れて、わざわざ北海道を選んだヤツ。俺に、とんでもない約束をさせたヤツ。
俺はそいつに、佐伯さんがしてるのと同じようなシュシュを買った。買わされた。
ユキ。
名前が浮かんでしまった。ユキも、こんなふうに、俺のことを思ったり、人に話したりすることがあるのかな。
佐伯さんが、広島の子でなかったら。俺と同じ高校や大学に行ってたら。俺は佐伯さんとつきあったりしてたのかな。
佐伯さんの言う通り、世の中には男も女も、ブルゾンちえみだったっけ、35億いる。なんで、たかが一人、もちろん何人でも、特定の誰かで、心満たされた気にならないといけないんだ?
俺も、両手で数えられるくらいしかいないが、一人とかしばられず、やってきたじゃん?
興奮している、俺?ひとりで盛り上がってるのか。酔ってるのか、この状況に。しばらくヤってないから?
俺は怒ってるのか。昔俺にわけのわかんないこと言った、あいつに?名前を思い浮かべてしまった。また思い出してしまった。
「佐伯さん。」
やっと声が出た。
「俺、佐伯さんのことが本気で好きかどうかは今はわからない。でも、ゆっくり、もっと知り合いになりたい。いつか自然に、抱き合ったりできるようになりたい。」
うん、と佐伯さんはうなずく。
佐伯さんの広島弁の混じる喋り方、かわいいなぁと思う。幼く聞こえる。でも、この喋り方を、東京で聞いたら、俺はきっと苦笑してるんだろうな。大阪弁ではさほど思わなかったけど、やっぱり、ちょっと田舎くさい。すまないけど、しかたがない。
もし俺たちがつき合うようになったら、彼女はどんな言葉で愛を語るんだろう。俺は笑ったりするのかな、それ聞いて。
「武本くん、変だと思わないでね。」
佐伯さんが俺の方を見て、ためらうように言う。海が視界にある所で交わす言葉は、それだけでロマンチックな気がする。
「3分だけ、抱き合おうか。今。」
え?
俺はちょっと目が点になりそうになった。佐伯さんはやわらかい笑みを浮かべて俺の方を見ている。すげえ提案してくんな、センパイ。
「変? 」
佐伯さんが言う。
「ううん、変じゃないです。佐伯さんのそういうとこ、俺好きです。じゃあ3分だけ。」
俺は手を伸ばし、佐伯さんの背中から腰に回す。佐伯さんは頭を横向けにして、よりかかるように俺の体を抱きしめた。暗く穏やかな瀬戸内海が、俺たちの前に広がっていた。
* * *
第7章「中」に続く