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死んでいてよかった

そう思ってしまう。私の、大切な、もういない人に。

父方の祖父は、私が生まれる前に亡くなっていて、私は祖父の生まれ変わりだ、とみんなから言われていた。

母方の祖父母は、遠いところに住んでいて、小学生の頃にしか会わなかった。あまり聞けないでいるが、祖母は母の実の母親ではないらしい。

そういうわけで、一番近しいおじいちゃんおばあちゃんは、父方の祖母だった。祖母の家は同じ県内にあって、家族でよく行っていたし、中学に入り土日が部活で忙しくなるまでは、父と2人で祖母の家で週末を過ごしたこともよくあった。

その祖母は、私が高校生の頃に死んでしまった。誕生日おめでとうと電話した次の次の日くらいに祖母の家で1人で倒れて入院してから、半年も経たないうちにだった。

私の後悔は、語り尽くせないほどある。
高校の部活の忙しさを理由に、あまり会いに行けなかった。でも部活なんて辞めたくて辞めたくてしょうがなかった。部長になってしまった責任などを理由にしていたが、辞めて祖母に会いに行った方がよっぽど意味のあることだったと思う。
他にも、写真をもっと撮っておけばよかったなとか、ごはんの作り方を教わりたかった、反抗期のような態度をとったこともあったけど、もっと話せばよかった、後悔は尽きない。
悲しみから立ち直る日も、まだまだ来ないだろう。

後悔、悲しみといった感情は、思い出しては泣いてしまうほど、たくさんある。その上で、祖母が死んでいてよかったと思ってしまうことが度々あるのだ。

まず、大学に進学してから思ったことが何度かある。
大学は、家から遠く離れたところに行ったため、年に3回くらいしか帰省はできなかった。そういった中で、祖母が倒れて入院した、となっても、なかなか会いに行くことも出来ないし、不安な気持ちは募るばかりだろう。
祖母が健康に暮らしていたとして、なかなか会えない私のことを心配させるのも心苦しい。

あとは、私が交通事故にあったり、病気をしたりしたとき。
祖母が亡くなってから、そういったことが立て続けに起きた。死んでからでよかった、心配をかけなくてすんだ、よかった、と思った。

そして、今のこの状況で、最も強く、頻繁に思う。
現在私が住んでいるところは、コロナウィルスが猛威を振るっているところで、反対に祖母の家や実家は、なかなか感染者数を抑えられているところにある。
このような状況で、倒れた、入院した、といったことが起きても会うことは難しいだろうし、ましてや、休暇だからと気軽に会いに行くこともできない。

だから、コロナウィルスなど誰も知ることのなかったあの時に、祖母が死んでよかったと思うのである。

離れたところに住む祖母がコロナウィルスにかかってしまわないか、大丈夫か、会いたいのに会えない、または私が感染させてしまった、と思うこともない。
入院中に何度も会いに行けて(距離がある病院だったが、部活後に自転車で会いに行ったこともあった)、最期には間に合わなかったが、ちゃんとお葬式でお別れできた。親戚も集まって、思い出を話した。なんと幸せなことだったか。

もう死んでいてよかった。そう思う。
だけれど、それでいて、こんな状況の中でもいいから、どんなかたちでもいいから、もっと長く、何十年も、最低限私が死ぬまでは生きていてほしかった。そう思う。
だってばあちゃんはコロナなんかに負けないよね?

せめて、大切な人との別れが、後悔の少ないものであるように祈る。

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何も見ずに木魚を描いてみたら、ディズニーの白い大きなキャラクターのようになってしまった。
祖母と皆とお寺に行ったとき、(本当は悪いことだったかもしれないが)必ず木魚を叩いていた私に、祖母はなんと声をかけたんだったか、と思いながら。

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