インテリジェンス・ケア(前)

「海って、一体青いのか赤いのかどっちなんですか」

 尾びれを止めて立ち止まり、眼前に広がる景色を見て亜遊(あゆ)は大佐賀(おおさが)に訊いた。

「なんだい、新入り。あんたそんなことも知らないのかね」

 大佐賀は大きな目を丸くした。亜遊のきょとんと首を傾げる姿を見て、「大変だねえ、記憶がないってのも」と肩を落とすと、一呼吸置いてから、

「海は青い」

 と青色の海の中から、眼前に徐々に広がっていく真っ赤な海を眺めて言った。

「本来は、青かったんだよ。ただ、我々のせいで赤くなってきてしまったのさ…新入りは赤い海は怖いかい?」

 亜遊は小さく首を縦に振った。

「あんたの気持ちも分かる。私も初めは驚いたさ。でもね、色は関係ないんだ。青でも赤でも緑でも黒でも。赤い海の人魚がみんなして攻撃的になるわけでもないし、青い海の人魚が必ずしも友好的なわけでもない。ただ…」

 大佐賀は続ける。

「赤い海にいる人魚は早死にしちまう。もって1年ってところかな。青い海の人魚の4分の1ほどしか生きられない」

 亜遊は目の前を通り過ぎていく人魚たちを目で追いかけたが、とても生き生きしていて1年以内に死んでしまうようには思えなかった。

 ただ、大佐賀の言う通り、実際に赤い海で1年以上生き延びられる人魚は数えるほどしかいない。そのほとんどは夏の温かさを知らず、あるいは冬の寒さを知らずに息絶える。

「じゃあ、赤い海の人魚たちはなんで青い海に逃げてこないんですか。こんなに広くて青い海もあるはずなのに」

 亜遊が投げかけたのは至極まともな質問だった。

「知らないからさ」

 素っ気なく大佐賀は答える。

「赤い海にいると早死にしてしまうことを彼らは知らない」

「でも沢山死んでしまったんですよね」

「ああ、死んださ。でも私たちは見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じない。彼らは仲間が死ぬのは赤い海とは関係がないと思ってる」

 亜遊はその言葉をどこかで聞いたことがあると思ったがどこで聞いたのか思い出せなかった。大佐賀は納得のいかない様子の亜遊を見て話を続けた。

「さっき新入りが見た通り、ぱっと見、彼らは私たちと何ら変わらず元気なんだ。今あんたは明日死ぬことを想像できるかい?できないだろう。それに、よく赤い海の人魚を見てごらん。彼らは私たちとは明らかに違う」

 亜遊は改めて赤い海を回遊する人魚たちを目で追いかけた。そしてすぐに、青い海の人魚との違いを理解した。大佐賀は亜遊が悟ったのを見ると、小さく頷いた。

「そうだ。赤い海にいると美しくなれる」

 亜遊は昨日初めて大佐賀など青い海の人魚とも出会ったからこそ、その違いは一目瞭然だった。赤い海の人魚は顔立ちが整っており、鱗の一枚一枚がまるで毎日手入れされたガラスのように水面から差し込む太陽光をキラキラと反射させていて、すらりと長く伸びる尾びれを優しく動かしていた。その姿は、亜遊にはあまりにも魅力的に映り、今にも赤い海に向かってヒレを必死に掻きたくもなった。

「死ぬと聞いても飛び込みたくなるぐらい魅力的だろう?」

 大佐賀は亜遊の心を見透かして言った。

「私ももうこんな歳だが女だ。いつまでも美しくいたいし、確かに赤い海にいる人魚は本当に嫉妬してしまうぐらい綺麗だ。だから、彼らが早死にすることを知っていながら、美しさを選択しているのなら何も言わない。でも彼らは自分の命が引き換えになってることを知らないんだ。それは絶対に間違っている」

 大佐賀は憤りを隠さなかった。

「じゃあ説得すれば…」

「無理さ。あいつらはバカなんだ。小難しい真実よりも分かりやすい嘘を好む。『赤い海にいると綺麗になれる』と初めに言い出した真黒(まぐろ)という女をはじめ、バカの心を掴むのが上手いカリスマが沢山いるんだ。さらにたちが悪いことに、真黒たち自身も自分の話が間違ってるとは思っていない。そいつらがいる限り私の話に耳を傾ける奴なんて…」

 大佐賀はそこでふと眼前を見て言葉を止めた。亜遊は大きな目を一段と見開いた大佐賀の姿を見て、大佐賀と同じ方向を見ると言葉を失った。

 先ほどまで2人の数十メートル先にあった赤い海が物凄い勢いで2人に迫ってきていた。2人の泳いでいる場所もすでに紫のグラデーションになりかかっている。

「馬鹿な……何が起こっている」

 大佐賀は呆然とする亜遊の手を強く引いた。

「逃げるぞ、新入り!」

 2人は向きを変えて全力で泳いだ。老体の大佐賀は徐々にスピードを落としたが、逆に亜遊が大佐賀の手を引き、時折後ろを振り返りながら、迫りくる赤い海から逃れた。

 30分ほど泳いだ後、ようやく2人は青い海の集落に戻り、岩場で呼吸を整えていた。2人の姿を見て、数匹の仲間が駆けつけてきた。

「岩奈(いわな)、何がどうなっている…?」

 肩を切らしながら、大佐賀は駆けつけてきた岩奈に尋ねた。

「それが、真黒の影響力が最近急激に高まっているみたいでみんな赤い海に移住し始めたんです…。それに真黒一派の三間が『ウツボの糞を食べれば綺麗になれる』とか言い始めて、本当にウツボのそれを食べ始めた魚が出てきたのも、赤い海の急速な拡大に関係しているのかも…」

「脳無しどもが…」

 大佐賀はそう吐き捨てて頭を抱えた。

「あとどれぐらい持つ?」

 大佐賀が岩奈に投げかけた質問は、本質的な質問だった。

 岩奈は思わず口ごもったが、やがて沈黙に耐え切れず「早くてあと半年かと…」と言った。岩奈の言葉に人魚たちは顔を真っ青にして静まり返った。

 あと半年すれば大佐賀たちが望むかどうかにかかわらず、海から青色は消える。つまりそれは、大佐賀たちの命が後1年と少しということと同義だった。

 そんな絶望的な雰囲気が漂う中。

「――生きたいですか? それとも美しくなりたいですか?」

 と水面の方から声がした。聞き覚えのない声だった。人魚たちは上を見上げると、水の中をゆっくりと降りてくる女の姿に目をしばたたいた。

 それは、あまりにもその女が美しかったからだった。赤い海の人魚たちでも到底及ばないぐらい。これ以上の美がこの世には存在しないのではないかというぐらい。

 女は大佐賀たちと同じ目線まで降り立つと、目の前にいる大佐賀の目をじっと見て改めて聞いた。

「生きたいですか? それとも美しくなりたいですか?」

「美しく生きたい」

 大佐賀がまっすぐに答えると、女はくすりと笑った。

「では、もっと賢くなりましょう」

 そして、女は耳なじみのない言葉を発した。

「インテリジェンスケアです」



「で、インテリジェンスケアとはなんだ」

 大佐賀は若狭木(わかさぎ)と名乗る女に露骨に疑いの視線を向けた。

「自分で考えて実行するケアのことです。赤い海の人魚たちは真黒さんなどのカリスマの意見を何も考えずに受け入れ、思考停止の状態で実行しているので、まさに私のこの考え方と正反対で、最も愚かなケアだといえます」

 人魚たちは若狭木の話に聞き入っていた。

「まあ、こうして話続けていても有限な時間の無駄遣いですので、早速一つ、鱗の輝きを一週間で取り戻せる方法を皆さんにお伝えしましょう」

 そう言うと、若狭木は流暢に言葉を続けて、その方法を具に論理的に皆に語った。ひとしきり話し終えた後、若狭木は訊いた。「どうですか?」

 少しの間があった後に、大佐賀が口を開いた。

「嘘だね。その理論は間違っている」

 大佐賀は「お前の理論のここが違う、ああ違う」と強い口調で語り始めた。

 他の魚たちも大佐賀の意見に同意だった。聞き始めてすぐに若狭木の話が真黒たちのそれと変わらないことをそれぞれが悟り、心底落胆していた。

 しかし、大佐賀の反論を聞いて、若狭木だけが笑っていた。

「正解です。それが、インテリジェンスケアです」

 と。

「私は皆さんを試すために、わざとそれらしい理論を並べて話をしました。しかし皆さんは自分の頭で考えて私の間違いに気づいた。それが、自分で考えるということです。美しい人魚が薦めるケアだから正しい、そういうわけではないんです。色眼鏡を外して、素直な心で疑うことが大切です」

 若狭木は高らかに続ける。

「では今からあなたたちが自分自身の最大の美しさを引き出し、海が本来の青さを取り戻す、本当のケアについてお伝えしましょう」

“海洋バランスリセット法”

 若狭木が語ったのはまたも他の人魚たちにとっては聞き馴染みのない言葉だった。

 海洋バランスリセット法には4つのステップがあると若狭木は言った。

“ステップ1でコンプレックスを取り払い”

“ステップ2で美しさを引き出し”

“ステップ3で自分らしい美しさへと昇華し”

“ステップ4でその美しさを完全なものとする”

 そして、ステップ4が達成された時、海は青さを取り戻す。

「ただ、この方法を試したのは今まで私一人です。私は、理論には自信がありますが完璧ではありません。それに理論が完璧でも、実際やってみると理論通りにならないことがあるのも知っています。個体差があり、完璧な理論がそれぞれ異なることも知っています。理論は実践とセットでようやく価値が生まれるのです。だから、協力してください」

 若狭木は真剣な眼差しで他の人魚たちを見つめた。

「一緒に考えて考えて考え抜いて、青く澄んだ海で永く、美しく生きましょう。思考を止めれば死んだも同然です」

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