パラベンフリー

 第80回次期大統領選候補者演説の最後の一人、ガードルド・スケーリー・フィンの演説が終わると、街宣車の周りからは溢れんばかりの観衆の声援で地響きが起こった。フィンは笑顔を湛えて手を振って観衆たちの声援に応えながら、街宣車の後部座席に乗り込んだ。フィンがドライバーに車を出すように告げると車はゆっくりと動き出し、熱狂的冷めやらぬ観衆の間を潜り抜けていった。

 今回の大統領選は未だかつてない盛り上がりを見せていた。それは今回の候補者3人の個性や魅力的な公約、拮抗した支持率のみからではない。

『権力を手にした人間は腐敗する』

 かつて証明された権力と腐敗の相関。

 そのためグレイバーグラント国では、権力者の腐敗を防ぐため、側近に『防腐者』と呼ばれる人間の腐敗を阻止できる特殊な能力を持った者を置くことがこれまで数百年のしきたりとなっていた。特に大統領候補者という位にあっては、その例外はなかった。

 だが、今回はグレイバーグラント建国以来、初めて防腐者を立てずに立候補を名乗り出た候補者がいた。その候補者こそが、先ほど演説を終えたガードルド・スケーリー・フィンだった。

「真に清廉潔白な人間は防腐者に頼らずとも腐敗することはない。防腐者を立てなければ己の腐敗を防げないような人間は、元より大統領になる資格はない」

 それがフィンの言い分だった。

 口には出さないだけで国民たちは密かに以前より防腐者の存在意義を疑問に思っていた。ゆえに、国民の多くはようやく機が来たと言わんばかりにフィンの主張に賛同を唱えた。

 その結果、政界経験のないフィンだったが、弱冠30歳という異例の若さにして大統領候補者として選出され、他の2名の候補者に勝るとも劣らない熱狂的な支持を獲得していた。


「フィン様はいつになったら到着するんだ?シイラ様をこんなに待たせて何様のつもりだ」

 街はずれに佇むレンガ造りのひっそりとしたレストランの個室で、他の候補者のシイラとモーレア・アンティアスとその防腐者たちは円卓を囲んでフィンの到着を待っていた。

「ブチルよ、そうカリカリするな。彼が最後の演説だったのだから遅くなるのは当然だろう」

 最年少のフィンが他の候補者を待たせている状況に苛立ちを隠せないブチルをシイラは穏やかな口調でなだめた。

「申し訳ございません。口を慎みます」

「気を付けなさい」

 ――シイラ。

 彼は今回の候補者の中で最も政界歴が長い。派手な経歴こそないものの、古くから政界に籍を置き、堅実に実績を積み上げて支持を築いてきた。また、リスクをひどく恐れる性格のため、政界でも珍しく、ブチルパラベン、プロピルパラベン、エチルパラベン、メチルパラベン(通称パラベン兄弟)と4人もの防腐者を側近に置いている。そのお陰か、シイラと同世代の権力者が老化と共に腐敗に溺れていく中、顎に白ひげを蓄えるようになってなお、シイラは腐敗とは無縁の生活を送っていた。

「では私とブチルは外でフィン様の出迎えに行ってきますね」

 プロピルはそう言って部屋を出た。「では、私はお食事の用意の手伝いに」とエチルも部屋を後にする。

「モーレア・アンティアス様は何かお申しつけございますか」

「ありません。あなたはシイラ様のご心配だけをなさってください。モーレア様には私が仕えていますので」

 残されたメチルがもう一人の候補者のモーレアに尋ねたが、モーレアの代わりにモーレアの防腐者のフェノキシが答えた。

「そういう言い方をしてはダメでしょう」

 モーレアはフェノキシを咎めた。

「すみませんね。この子、防腐者なのに私より口が悪くて」

「私の防腐者も大概なのでお互い様ですよ。それに、モーレアさんと比べれば、この世の誰もが口の悪い人間になってしまいますよ」

 シイラは冗談交じりに笑った。

 ――モーレア・アンティアス。

 今回唯一の女性候補者。元々は民間で勤めていたが、類まれな頭脳を買われ、齢30にして政界入りを果たす。その後は首都の市長を務めて華々しい実績の数々を残しただけでなく、民間で培ったノウハウを活かし、政界の構造改革を推し進めたことでも有名だった。

 2人がしばらく談笑しているとレストランの外で車のエンジンが止まる音がした。

「おっ、来たようだね」

「お待たせして本当に申し訳ございません」

 フィンは2人の顔を見るや否や、申し訳なさそうに頭を下げた。

「あれ、ブチルとプロピルは?」

「あぁ、彼らは少し私のドライバーと話してましたが、すぐ来ると思いますよ」

 そう言っている間にブチルとプロピルもドライバーと共に部屋に戻ってきた。

「大変だっただろう。さ、座りなさい」

 シイラが声を掛けると、メチルは椅子を引いてフィンに座るように促した。フィンはメチルにも頭を下げて腰掛けた。

「仲間……とはいかないが、今日は候補者三人食事しながらゆっくり話そうじゃないか」

「そうね、楽しくお話しましょう」

「乾杯」

 そう言って、3人は軽くグラスをぶつけ合った。



 翌朝、シイラはインターフォンの音で目を覚ました。

「誰だ、こんな朝早くに……」

 シイラは軋む身体をゆっくり起こして一度大きく伸びをする。それからテーブルの上の眼鏡を付けると寝ぐせも直さずに寝間着のまま玄関を開けた。

「警察です」

 シイラは状況が呑み込めず狼狽した。

「警察……?」

「モーレア・アンティアスとフェノキシの2名を殺害した容疑で署まで同行願います」


 シイラは手錠を掛けられた状態で取調室に放り込まれ、冷たい椅子に座らされた。部屋の中にはパラベン兄弟が同じように手首に手錠を掛けられて座らされていた。

 本来であれば警官は取調室でシイラらと机を挟んで向き合うのが一般的だが今回は例外で、取調室がガラス越しに見える隣の部屋からマイクを通して会話をしていた。

 マイクを通して聞こえる警察の声によると話は以下のようだった。

 モーレア・アンティアスとフェノキシは昨晩フィンとシイラとパラベン兄弟との食事を終えた後、行方が分からなくなった。嫁が帰ってこないことを不審に思ったモーレアの夫が警察に通報し、警察がすぐさま捜索に入ったところ、シイラらが食事をしたレストランからおよそ3キロほど離れた森の中で2人の死体が見つかった。死亡推定時刻は午後11時。食事会が終わってから2時間以内の出来事であり、フィンやシイラ、パラベン兄弟が疑われるのは当然のことと言えた。

 シイラには何の身に覚えもなかったが警察がシイラらを犯人と断定する理由は、その死因にあった。

 モーレア・アンティアスとフェノキシの2人は『防腐刺激』によって殺されていた。

 防腐者は言葉や身体を使って自身が持つ目に見えない防腐物質を防腐対象に届けことで防腐を施す。その際、防腐物質が適量であれば、防腐対象に害はないが、物質量が一定の基準を上回ると防腐物質はたちまち対象を刺激する危険物質と化す。それが防腐刺激と呼ばれるもので、量によっては人を簡単に死に至らせることができる。そのため警官たちも自身の身を案じてパラベン兄弟の保持する防腐量を最大に発揮しても届かない距離まで離れて部屋を隔てて取り調べを行っていた。

 モーレアと最後に接触したのはフィンとシイラ、その防腐者だ。そしてフィンは防腐者を付けていない。

 以上のことから、警察はシイラの指示でシイラの防腐者のパラベン兄弟がモーレアを殺害したと断定した。

「私は、やっていない…」

 シイラは顔を真っ青にしながらかすれた声を絞り出した。

「つまり、防腐者が勝手にやったと?」

「違う、私たちは誰もやっていない」

「この状況でまだ白を切るつもりか!」

 警官はデスクに手を叩きつけた。

「お前ら以外に誰がいるっていうんだ!証拠も動機も全て揃っている」

 何かがおかしい。シイラやパラベン兄弟がそう思うのは当然だった。

「私はその時間にはとっくにエチルの運転でメチルと一緒に市内に戻っていたんだ。殺せるはずがない」

「私とブチルも、確かにレストランの片づけの手伝いでシイラ様やエチルたちより遅くに帰宅しましたが、まさかモーレア様を殺しはしません。それに…やるならもっと上手くやる」

 とプロピルも補足した。

「疑いを掛けられている者同士が庇い合って、それが証拠と言えるか?」

 シイラとパラベン兄弟は返す言葉がなく押し黙った。客観的に見れば誰がどう見ても自分たちが犯人と思われて仕方がなかった。

 誰かが自分たちを貶めようとしている、そう思わざるを得なかった。

 そしてその人物が誰なのか、思い当たるのは1人しかいなかった。

「ならフィン君の方の取り調べは」

「彼の取り調べはとっくに終わったさ。無罪だよ、無罪。彼は君たちと離れた後もずっとドライバーと2人でいた。それに防腐者なしでどうやって防腐刺激で殺害できる?」

「他に協力者がいた可能性は……」

「いい加減にしろ!」

 警官の大きな怒鳴り声は、音が割れて不快に取調室に響いた。

「お前らがやったんだろうが! 聞いたさ。お前の防腐者たち、『九兵寺』出身なんだってな。真面目で健全なふりして、なんと九兵寺出身とは。そりゃあ人殺しの一つや二つも朝飯前だよなぁ」

 警官の言葉にシイラを含むその場にいた全員が凍り付いた。

 九兵寺は古来より犯罪者の流刑地とされていた場所で、そこの出身の者は腫れ物のように世間で忌み嫌われていた。

 シイラはパラベン兄弟が九兵寺出身ということを雇ってしばらくしてから知った。その際すぐに解雇することもできたが、シイラはパラベン兄弟の能力を買っており、また出身地だけで差別することは彼の信条が許さなかったため、パラベン兄弟を出身を伏せたまま雇い続けた。

 しかし、そのことがここに来て仇となった。

「……どうしてそのことを」

「フィンを取り調べしている時に奴が教えてくれたのさ。フィンは尊敬するモーレアを失って錯乱状態で、奴も人づてに聞いただけだと言っていたからその時は信じていなかったが、部下に調べさせたらすぐに事実だと分かった」

 警官の言葉を聞いてシイラは全てを察した。フィンは元々パラベン兄弟が九兵寺出身という情報を手に入れていて、今日まで敢えて隠していたのだ。自分を潰せるタイミングで、二度と立ち直れないぐらい決定的な致命傷を与えるために。全てはフィンの掌の上だった。

 どう足掻いても自分の負けだった。たとえこの場で潔白が証明できたとしてもモーレアが防腐刺激によって死んだことは必ず世間に伝わる。そうなれば世間の防腐者への猜疑心や反感はこれまで以上となり、どのみち勝ち目はない。

 この警官だってそうだった。彼もまた防腐者を嫌っている。防腐者の地位を貶める絶好の機会として、我々を犯人にしたがっている。これが今の世論だ。

 シイラは肩を落とした。

 パラベン兄弟は隣にいるシイラの姿を見て、シイラが何を言わんとするか察した。ありもしない罪を認め、自分が殺しを指示したと話し、少しでも自分たちの罪を軽くしようと弁明する。パラベン兄弟たちはそう感じ取った。

「シイラさん、ダメです」

 メチルが震える声で言った。

「負けちゃダメです。認めちゃダメです。こんなところで腐った人間に負けていいわけがないんです」

「そうですよ!シイラさん」

 そうエチルも賛同の声を上げた。

 しかし、次にシイラが口にした言葉はパラベン兄弟の想像だにしないものだった。

「お前たち、私に黙ってよくも勝手なことをしてくれたな。他の候補者を殺せば私が自動的に大統領になれるとでも思っていたのか?」

 パラベン兄弟たちはシイラの言葉に耳を疑った。あの誰より真面目で誠実で優しかったシイラ様が罪を自分たちになすりつけようとするなんて……シイラの言葉をにわかには信じられずにいたが、直後シイラは決定的な一言を言い放った。

「ふざけるなよこの低能どもが。結局は九兵寺出身の生まれつきの犯罪者か。こんなことになるならこんな奴ら雇うべきじゃなかった」

「なんだとこのクソ野郎!」

 気性の荒いブチルはシイラに殴りかからんとしたが、なんとか寸前で手を止めた。ここでシイラを殴れば、たとえ殺人を犯していなくとも別の罪に問われることになる。一方でメチルとエチルはシイラの言葉が未だに信じられず呆然としていた。

「何十時間でもいい。吐くまで尋問してやってくれ」

 そう言うと等級の低い警官が取調室の扉を開けて入ってきて、あっさりとシイラの手錠を外し、シイラを部屋の外に連れ出した。

 

 部屋にはパラベン兄弟だけが残された。部屋は重苦しい空気に包まれていた。

「シイラさん…どうして」

 現実を受け止められないメチルは涙を流して震えながら身体を小さくしていたが、そんなメチルの姿を見てブチルは鼻で笑った。

「おいおいメチル、俺たちが誰だか忘れたか? 俺たちは『防腐者』だぜ」

「そうそう。防腐はあくまで腐敗を“遅らせる”だけ。腐敗を完全に停止させることなんてできないのさ。シイラ様もああ見えてとっくに腐ってしまっていたんだろう」

 プロピルが付け加えるとエチルは2人を睨んだ。

「兄さんたち、さすがにその言い方はないんじゃないか? 僕たちがもっとしっかりと仕事をしていればこんなことにはならなかったかも……」

「おいおい、2回言わせるなよ兄弟。俺たちの役目は腐敗を遅らせるだけ。今日こんなことにならなくても、いつかはこうなっていただろうよ」

「兄さんたちは自分たちの置かれてる状態が……!」

 エチルは机を叩いて勢い良く椅子から立ち上がった。

「黙れ」

 取調室がガラス越しに見える別の部屋からマイクを通して警官の声が響いた。

「立場を弁えろ。自分たちが一体何をしたか分かっているのか?大統領候補およびその防腐者の殺害。その罪の重さを理解しているか?」

 四人は黙り込み、取調室はしんと静まり返った。大統領候補の殺害のその罪の重さ。もしも罪を認めればどうなるか、4人は重々に理解していた。

「安心しろ、誰かが罪を認めればお前ら全員が死ぬことはない。そうだ、お前ら、事件当日2つのグループに別れたんだってな。どちらかのグループが罪を認めれば片方だけは生き残れるかもな」

 警官は明らかにこの状況を楽しんでいた。

「兄弟同士で罪を擦り付け合うんだ、こりゃ見物だねえ」

 そう言って椅子に深く掛け直した。

「腐ってる……」

 エチルは小さく震えながら呟いた。

 罪を擦り付け合う、と言っているが、実際は兄弟で殺し合いをしろと言っていることと変わりがなかった。

「結局は防腐者を貶めたいだけで、犯人が誰かなんてどうでもいいってこと…?」

 エチルは様子を伺うようにブチルとプロピルをちらりと見た。何も言ってほしくない。沈黙していて欲しい。そう思っていたが、ブチルは「俺とプロピルはやっていない」と否定をしたので、エチルは愕然とした。

 このタイミングで自身の容疑を否認するということは、ブチルとプロピルはこの残忍なゲームに参加を表明し、弟たちを殺すのも厭わないということだった。

「本当に、あの人の言う通り僕たちの中で罪の着せ合いをするつもり……?誰もやっていないのに?」

 プロピルは笑った。

「誰もやっていないだと?第三者がそれを言うならまだしも殺した張本人がそれを言うとは滑稽だねえ」

「兄さん!!」

 兄弟なら4人全員で無事にここを出られる方法を考える。きっと自分たちにはそれができる。そう思っていた。しかし、メチルのそんな期待も粉々に打ち砕かれた。いくら否定しても目の前のプロピルとブチルの言動や態度の全てが物語っていた。自分が助かれればそれでいい、と。

 なんだ、結局みんな腐ってるのか。

 人間は腐っていくものだと最も理解しているのは自分たちのはずだったのに、今まで自分は何に期待していたのだろう。エチルは心の中の温かい炎のようなものがふっと消えていくのを感じた。

「それを言うならシイラ様と先に帰った僕たちより後から帰った兄さんたちの方がよっぽど怪しいと思うけど」

 エチルの言い分は正しく2人の痛い所を突いているはずだったが、2人は余裕げな態度だった。

「警官さん、すまないがフィン様のドライバーを呼んでもらえるかい? 私たちの潔白は彼が証明できる」

 プロピルが依頼すると警官は面倒そうに腰を上げて近くの電話機を手に取って外と通信を行った。ほどなくして、取調室がガラス越しに見える部屋にフィンのドライバーを務める男が連れてこられた。

「5分だけだ。5分だけこいつと会話させる時間をやる」

 ドライバーはまさか自分が巻き込まれるとは思っていなかったのか、落ち着かない様子だった。

「ドライバーさん、今ちょっと私たちは困った状況でね。どうかあなたの証言で私たちの無実を証明してくれないか」

 プロピルが切り出すとドライバーは辺りをキョロキョロと見回してから小さく頷き、おずおずと語り始めた。

「会食が終わると、エチルさんとメチルさんはシイラ様をお送りすると言ってすぐに車に乗って去りました。その後ブチルさんとプロピルさんは私と一緒に食事の片づけをしてくださり、30分ほどですかね…片づけが終わったのでフィン様の車に同席してもらって私の運転で帰りました」

「警官さん、今の話、フィン様の話と食い違いはないかい?」

「ないな」

 警官は端的に答えた。

「見ろよ」

 プロピルはエチルたちの方に向き直して鼻を鳴らした。

「確かに状況はお前らと変わらないが、今回の件でフィン様の証言とシイラ様の証言、どちらの方が信頼に足るかは、お前らでも分かるだろう?」

「あ」

 その時、ドライバーが小さく声を放った。その声に反応してプロピルらはもう一度ドライバーの方を見た。

「そういえば、帰りに車でプロピル様たちを送迎している際、内密な連絡をするために車を停めて一旦外で話をさせて欲しいと言って、お二人とも外に……」

 ドライバーの発言にブチルとプロピルの表情が一変した。

「10分ほどしたら戻って来られたのですが、妙に長いなと少し不思議で……」

 それは、警官が楽しんでいるこの『見世物』を終わらせてしまうぐらいにあまりにも決定的な発言だった。

「貴様!なぜそんな嘘を!やくそ――」

 黙っていられずにプロピルは叫んだが、その声は途中で途切れた。

 言葉失ったプロピルは突然何者かに首を絞められているかのように首元を押さえてうめき声をあげ、椅子から崩れ落ちて床に倒れて動かなくなった。エチルは駆け寄って首元を軽く押さえると顔を真っ青にして言葉を失った。

 何が起きたのか理解したメチルは頭を抱えて悲鳴を張り上げた。

 人を殺せる武器は何もない。そんな中で唯一人を殺せる手段。それは一つしかなかった。

『防腐刺激』

 そしてそれを使えるのは、パラベン兄弟以外に誰もいない。

 エチルはブチルを睨みつけると手錠で両手を繋がれたままの状態で飛び掛かって押し倒した。

「兄さんが殺したのか…」

「さすがに俺も自分の兄弟に手を掛けたりはしない」

 ブチルは小さく首を振って否定した。

「兄さんじゃないなら誰だって言うのさ?」

「それは……」

「言えないってことはやっぱり兄さんが……!」

 パラベン兄弟の中で唯一ブチルのみが一体何が起きているのか推測がついていた。だからこそ、ここで何かを言えば自分がどうなるかも予想がついていて、ブチルは自分の容疑を否認する以上のことをできなかった。

「俺じゃない、信じてくれ」

「信じられるわけないだろ!兄さんとはいえ絶対に許さない」

 エチルは血走った目でブチルを睨みつけ、手錠で繋がれた両手をブチルの顔面に振り下ろそうとした。

「もうやめて!」

 取調室にメチルの叫び声が響き渡った。

「エチル兄さんもブチル兄さんももう止めよう。僕は兄弟で殺し合いなんてしたくない」

 弟の声にエチルは殴りかけた手を止めてメチルの方を振り返った。

「今回のことで分かった。世界はそんなに優しくなくて、みんなみんな腐っていくんだって。でもその中でもせめて僕たちだけは最後まで腐らずにいよう?」

 一見前向きに聞こえるメチルの言葉はこれ以上にないくらい後ろ向きで――

 メチルは手錠に繋がれた両手をゆっくりと頭上に掲げた。

「私がモーレア様とフェノキシさんを殺しました」

 と、どこか吹っ切れたような表情でメチルは言った。それは自殺の宣言に等しかった。

 一瞬時が止まったかのように言葉を失ったブチルとエチルだったが、エチルはすぐにメチルに駆け寄って肩を掴んだ。

「メチル、自分が何を言っているのか分かってるのか……?」

 メチルは黙ったまま首を縦に振る。

「ここで罪を認めるということは、死ぬということなんだよ……?」

「いいよもう。他の候補者も警官も一般市民もあらゆる人たちが僕たちを不要な存在だと思っている。それならもういいんだ。腐って生きていくより、綺麗なまま死にたい」

 メチルは普段自分の意見を主張することを好まなかった。そのメチルがここまではっきりと意見を述べるということは、その意思が確固たるものであることの証明だった。

 エチルはどうすべきか逡巡した。エチルにとっての最善は3人全員が生きてここを出られることだった。しかし、それは叶わないとすでに心のどこかで悟っていた。

 エチルはもう一度メチルの目をじっと見た。まっすぐで揺るぎのない目だった。そんなメチルの手を取ってエチルは笑いかけた。

「それなら、俺も一緒だ」

 そう小さく呟くと、警官たちの方に向き直した。

「私もメチルに手を貸して2人を殺しました」

「お前ら……」

 ブチルは呆然として2人を見た。2人もブチルを見た。「兄さんはどうする?」と、2人の視線は訊ねかけていた。

 しばらく静寂があった。それからブチルは黙ったまま首を小さく横に振って俯いた。

 エチルもメチルもブチルを責めることも説得しようともしなかった。2人はなぜだかどこか清々しく穏やかな気持ちに包まれていた。警官が扉の鍵を開けて入ってくる。そして2人は何の抵抗を見せることもなく、ブチルの方を見て最後に「さようなら」と小さく残し、部屋の外に消えていった。

 

 一人残されたブチルは、警官たちに背を向けて表情を見られないようにして肩を揺らした。

 しっかりと泣いているように見えているだろうか。

 と、モーレアとフェノキシをプロピルと共に殺して一人だけ生き延びたブチルは必死に笑いを堪えた。



 罪を逃れて解放されたブチルはひたすらに逃亡していた。

 ブチルにはすでに解放された時の余裕はなかった。

 人ごみを掻き分け、紛れ、自転車を盗み、人気のない山林に入り、睡眠もロクに取らずに必死に逃げた。

 ブチルが逃げているのは何も警官からではない。

「そういうことだったとは……あいつに見つかったら俺も……」

 ブチルは真っ暗な森の中を懐中電灯一本を頼りにひたすらに走った。途中木の幹に躓いて転んでも止まることなく進み続けた。しかし、懐中電灯が照らした明かりの先に映ったものを見て、ブチルは足を止めた。

「よく逃げましたね、お疲れさまでした」

 真っ暗な森林の中に軽い拍手の音が響いた。そして懐中電灯の明かりの先から、フィンのドライバーはけろりとした表情で姿を現した。

 終わりだ。 

 ブチルは絶望のあまり懐中電灯を手から滑らせた。地面に落ちた懐中電灯は変わらずドライバーの姿を照らす。

「弟さんたちが健気な兄弟愛を見せたのに、あなたは1人だけビビって罪を否定して逃亡ですか。笑っちゃうぐらい腐ってますね」

 ドライバーはクスクスと笑った。

「どうですか? 自分の罪を兄弟に着せて死なせた気分は?」

「てめえ……!話と違うだろ!」

「勝手に動くとどうなるか分かってますよね?」

 ドライバーがそう言うと、ブチルは前のめりになる身体を止めた。この場の支配権は完全にドライバーにあり、ドライバーの指示がなければブチルは指一本さえ自由に動かすことはできなかった。

「あなたもプロピルさんも、期待通りの働きをしてくれましたよ。金と地位という餌を吊るせば簡単に主を裏切り、人殺しをして、兄弟まで裏切るんですから、上出来です。今回のこの事件はただの一事件ではなく、社会そのものを根幹から大きく変えるでしょう。少なくともパラベンと名の付く人間の居場所は社会に存在しなくなるでしょうね」

「そして防腐者ではなく、しかし防腐者と同じ防腐能力を持つお前らの台頭が始まるわけか」

「ご名答」

「お前の本来の役割はドライバーだ。だから誰も疑いもしなかった。名目上は防腐者ではないドライバーでも防腐能力を保有していると。しかもまさかあの距離からプロピルを殺せるほどの俺たちより強力な防腐刺激を持っているなんてな。フィンの野郎が防腐者を付けなくとも腐らないカラクリがようやく分かったよ」

「ヘキサン・ジ・オール。それが私の名前です。本来の役割はドライバーですが、防腐能力を持ちます。ただあくまで本来の役割はドライバーなため、あなたたちより防腐力は弱い。そのために保有する防腐物質量はあなたたちより多く、防腐刺激も強力なんです」

 と、ドライバーは告げた。

「お前らは俺たち防腐者に何か恨みでもあったのか?選挙に勝つだけなら、いくらでも他に方法はあったはずだ」

「フィン様は人々の望みを叶えたい、それだけです」

「実際は防腐者がいなくなったわけではなく名前を変えただけで、防腐刺激で優秀な権力者が死んでいくリスクだけが増し、世界が徐々に崩れていくとしても、か?」

「それが国民の望んだことですから。政治家は国民の望むことを実行するのみです。それが正しいか否かに関わらず」

「そうか」

「はい」

 そこで二人の会話は途切れた。

 会話が終わるとどうなるか分かっていたブチルは最後の賭けで背中に隠していたナイフを引き抜こうとしたが、直後全身に電流が流れるような激しい痛みに襲われて、掴みかけたナイフを落とした。

 過去を惜しむことも、未来を恐れることもできないほどに一瞬の出来事だった。

 ブチルは声を上げることもできずその場に突っ伏した。ドライバーはしばらく冷めた目でブチルの死体を眺めていたが、やがてブチルの傍の懐中電灯を拾って踵を返した。


 一ヶ月後。フィンは無事勝利を収め、大統領の座に就いた。

 そしてパラベン兄弟の起こした事件は瞬く間に世界に広がっていた。ヘキサン・ジ・オールの予言通り、パラベンは社会から居場所を失った。パラベンだけでなく防腐者と名のつくものは迫害され、あるいは迫害を恐れ、次第に山に逃れ、他の人間との関わりを絶って暮らすようになった。

 権力者たちは。

 ある者はフィンとヘキサン・ジ・オールの方法を模倣して腐敗を防ぎ、ある者は何もせずに腐っていった。しばらくすると権力者の中で『突然死』が増加したが人々はあまり気には留めなかった。悪は倒れた、人々はそう信じて疑わなかったからだ。

 少しずつ崩れゆく世界で、街を往く人々は今日も幸福そうだった。

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