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「人」と向き合う人事という仕事

人事という仕事は、向き合う先が「制度」や「企画書」だったりもするのですが、なかでも本丸は、言うまでもなく、「人」です。

面談や1on1で、ひとりの人と向き合うときは、目の前の人を(大げさかもしれませんが)「救いたい」という思いでいます。と同時に、「救える」などという思いはおこがましい、というのもひとつの真理だと思っています。

「救いたい」という熱情と、「救えるわけではない」という謙虚さ。相反する2つの思いを両天秤にかけつつ向き合うことが、大切だと思っています。前者に偏ると、おせっかいであったり、時として相手を傷つけてしまうこともある。後者に偏れば、薄情であったり、これまた相手を傷つけてしまうことがある。

そして、「救いたい」「救えるわけではない」というジレンマのさらに手前で必要なのが、その人の悩みを、まずは「知る」ということ。

その人は、悩みを「どうしたらいいでしょうか」という問いに換言してこちらに投げかけてきます。「救いたい」「救えるわけではない」という思いは、その問いに答えられるか、答えられないか、答えられるのであれば、どう答えるのか、というふうに、「問いに対する答え」という形で現実化します。

しかし、一足飛びに「答え」に飛びつくことは、悩みを「知る」というステップをないがしろにすることにつながります。

「人生は生きるに値するものであろうか」「人生の意義は何か」「われわれはいずれからきたり、またいずこに去るのであろうか」「このような問いをおこすこのわれとは何か」「この世の外に何者かがあって、おのれの気まぐれを満足させるために、世界を思いのままに動かしているのであろうか」等々。

(中略)

そこでわれわれは、これらの問いをすべて一つに要約して問う、「実在とは何か」。哲学者や、いわゆる宗教に関心の深い人々は、この究極の問いに対して、それぞれが回答の方法をもつ。そして、仏教者、ことに禅仏教者もまた独自の回答をもつが、それは、哲学者のそれとも、いわゆる宗教に関心を寄せる者のそれとも異なる。これらの人々は、たいてい問題を呈せられたままの形で、すなわち、客観的に解決しようとする。問われたままの形で問題を取り上げ、問いが提起されたと同じ仕方でそれに答えようとする。

しかるに仏教者は、その問題の出できたった源泉、もしくは根源そのものに到って、そもそもなぜこのことが問われなければならなかったかを突きとめようとする。「実在とは何か」という問いが与えられるならば、かれらは問いをそのまま取り上げないで、ひるがえって質問者自身にまで到らんとする。だからその問いはもはや抽象的なものではなく、人が、生きた人が、登場してくる。その人は生命の躍動する人であり、問いもまた同様である。それはもはや、抽象的、非人間的、あるいは超人間的な問いではなく、生々として、質問者その人にじかに結びついている。

』より

「人」と向き合うことを仕事にしている人に対して、私はときおり、「聞かれたことに答えてはいけない」という話をします。「聞かれたことに答えているか」という、「問いと答えの整合性」を口酸っぱく求めるロジカル・シンキングの研修とは、まったく対照的です。

聞かれたことに答える、すなわち、《問われたままの形で問題を取り上げ、問いが提起されたと同じ仕方でそれに答えようとする》ことは、「問いに対する答え」という(表面的な)スタンスで相手と向き合うことに陥る可能性があるからです。

そうではなくて、《その問題の出できたった源泉、もしくは根源そのものに到って、そもそもなぜこのことが問われなければならなかったか》について、想像を巡らせ、相手と対話する。悩みを知るということは、悩みを抱いているその人そのものを知る、ということです。

私は、「どうしたらいいでしょうか」と救いを求めて来た人に対して、「そう聞くのは、何が気になっているからなの?」と聞き返します。《そもそもなぜこのことが問われなければならなかったか》を聞き返すのです。するとその人は怪訝な顔をします。だって、救いを求めているはずなのに、その元になっている苦しみをえぐり返すようなことを聞き返されるのですから。

でも、その怪訝な顔を横目に、その人自身に迫っていくと、《人が、生きた人が、登場してくる》のです。そうすると、悩みとしての問いは、《抽象的、非人間的、あるいは超人間的な問いではなく》なり、《生々として、質問者その人にじかに結びつい》たものとして輪郭を新たにします。

ここまでいくと、実は、私が答える(救う)ことというのは、ほとんどなかったりします。悩みを抱えた人が、悩みに対する答えではなく、悩みそのもの、あるいは、悩みを生み出している自分自身に目を向けることによって、悩みと自分の関係性が変化し、それがひいては悩みを無化することがあるからです。

冒頭で、人事という仕事が向き合う先は「人」である、と書きましたが、これが意味するところは、字義通りではなく、真に「人」と向き合う必要があるということです。「人」が発する悩みや問いといった媒介物ではなく、その源泉である「人」にこそ向き合う。単純で複雑なこの姿勢が、人事という仕事の一端を担っているのではないかと感じています。

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