駆け抜けていく

初めて飼った犬は、まだミニコリーと呼ばれていたシェットランドシープドッグ、シェルティだった。珍しく黒い毛色で、母はビーグルがほしいなと思っていたのだが、長姉が他の犬にいじめられていた、ひときわ気の弱そうなこの子を飼うのだと主張して、選ばれた犬だった。

小柄で弱々しく、多分長生きしないから、と値引きされていたように思う。

その子は今なら考えられないことだろうが、外の犬小屋で寝起きし、いちどフィラリアで生死の境をさまよいもしたが、十数年と長生きした。

その子が死んだ夜、わたしは二番目の姉に、劇団健康の芝居を見るための2泊3日の上京につきあわされていた。親にもらった旅費のうち、新幹線の予算から差額をくすねるため、青春18切符の旅。もちろんすべて姉の懐に入る。静岡の長さを知ったのはその時だ。

帰路すでに、公衆電話で聞く様子がおかしくて、帰宅したら案の定、もう荼毘に付されたあとだった。
身内の死に慣れないゆえか、ただピュアなのか、真夜中にかかわらず仏壇前に父、母、祖母、姉ふたりが集合して読経したという。

たかが犬ではあるけれど、その晩年は父の、また姉の、癒やしの存在であった。

実はほぼ入れ違いに、雑種の犬がやってきていた。

通学途中、ニコニコとあるく小さな犬を私が拾ってしまったのだ。交通量がはげしく、轢かれてしまうのではと危惧してのことだが、首輪もなく、野犬の子ではなかろうか?ということで、その直前、夜中に泥棒が入り、かなりメンタルをやられていた我々家族の期待のエースとして番犬小屋を与えられた。

その年末、実家の営む店に、犬小屋の材料をもとめて近所のタクシー会社の方がやってきた。

母が雑談をしていると、野良犬がいつのまにか車庫に住み着いたので、みんなでかわいがっているうちに、何匹か子犬が生まれたので犬小屋を作ってやろうと思って……という。
生れた子犬の一匹が行方不明と聞き、母がピンときて確認すると、どうも我が家の番犬がその子であるようだった。

母犬は柴犬のようだが洋犬の血も入っているようで、我が家の犬も柴犬のようなりりしさの一方で、ほっそりと足が長くシルエットが柴犬とは少し違った。
野良犬出身のため、脱走、拾い食い、などなど問題児でもあったが、最後は大ムカデに刺されて亡くなった。

老衰の年齢でもあったし、家や倉庫のあたりを大きく改築した頃でもあり、いわゆる「普請負け」、家を建てたり触ったりすると不幸がある、最近は歌舞伎座新築時に立て続けに有名な役者さんが亡くなったときに噂されていたような、あんな不幸をかわりに背負ってくれたのかなとも思った。

次の犬はさすらいのゴールデンレトリバー。
山奥のキャンプ場に、ある老夫婦が散歩で訪れた際、きちんと身なりを整えれば、さぞかし美しいであろうという金色の大型犬が野犬に身をやつして歩いているのを発見した。
一度は帰宅したが、二人ともどうしてもその犬が忘れられない。
翌週キャンプ場を再訪し、連れて帰ってきてしまったのだが……

その犬はとんでもなく臭かった。

しかもでかいし。毛は長いし。老夫婦はたちまち困ったが、再び捨てるのも忍びなく、知り合いの獣医さんに泣きつく。

その獣医さんこそ、初めてシェルティを飼ったときから我が家がお世話になっていた人で、長姉の献身的な介護を2代の犬に渡って知っていたし、ひろい工場があることも知っていたので、我が家に連絡がきた。

長姉は、3番目の姉の勤務先の床下で生まれた猫を飼いはじめていて、先代の柴犬もどきが猫を見ると追いかけ回し、猫←犬←母の順にトムとジェリーみたいな追いかけっこをするのにやや申し訳なさもあったのか、いったんは断ったのだが、押しに負けるタイプのため、とにかく見るだけでも……という懇願に負けて出かけていった。

家につくなり、老夫婦は「よかったね」「大事にしてもらいや」とすでに壮行会状態。
引くに引けず、犬を引き取って帰宅したが、こいつもまた祖母が正月に向け丹精していた葉牡丹を食う、倉庫に置いてあったぬかを食う、白菜を食う。また、大型犬だからという理由だけでなく、ものすごく臭い。皮膚病ではないが、体中を掻きむしる。

「アレルギーやわ」

獣医の先生はそう言った。だから捨てられたのかも、と。普通のフードだとアレルギーが出る。それがわかっていて野菜を食べていたのだろう、と。

タダできた犬は一転して金がかかる犬となった。
でかいケージ、野菜、特別なフード。

躾をされておらず、来客にじゃれつきでもしたら怪我をさせてしまうし、散歩するにも危険が伴う。そのため、これもまた初代犬から世話になっているペットショップのお兄さんが、有料で躾を教えてくれることになった。

また、自宅で洗えないから、ペットショップにシャンプーとカットに出す。大型犬だから、値段も最上級。

しかし、ここで見捨てはできないのが長姉だ。
リードを引っ張られて側転で堤防の土手を転がり落ち、ペットショップのお兄さんに大爆笑されても、そのあと腕と肩の痛みがとれず整体に通いながら、まだ暗いうちに長い長い散歩をし、毛を梳かし、夕方もできたら散歩に行き、ととてもよく面倒を見た。

そしてまた月日が経ち、犬は老い、癌を患う。
動くのも辛いような様子を見せていたある日の夕方、工場を歩いていた姉は、屋根をかすめて青い火の玉が飛ぶのを見た。

翌日、彼は亡くなった。

もう、ペットは……と思っていたのに、数日後、姉の携帯にくだんのペットショップのお兄さんから電話が入る。

犬いりませんか。

実は前年、同じ打診があったのだが、すでにゴールデンがいるので断った。
しかし、一年を経てなお、その犬に貰い手がつくことはなく、その間ケージに閉じ込めれたままだったのだ。

姉はその犬を引き取った。ほとんど地面を歩いたことがないので、肉球が弱く最初はアスファルトを歩くのもつらそうだったが、人懐こく、天真爛漫な様子に長姉はめろめろになった。

ブサイクすぎて返品されたというが、母は名だたるドッグショーで賞を獲ったという触れ込み通り、スラリと長い足をピンと張った堂々たる立ち姿も、人のいない山奥でリードを離すと、枯れ葉の上を飛ぶように走る姿も、すばらしく美しい犬だった。

その犬は、姉が、病を得た父の代わりに店を守り、またその店をたたみ、父の代わりに批判の矢面に立ち、金になるものはすべて売り払うようなハードな片付けもすべてこなし、前よりはだんぜん狭い借家に引っ越し、すぐ戻るつもりの入院をした父が帰ることなく亡くなったときも、姉に寄り添い続けた。
長姉もまた深く愛情を注いでいたと思う。

大きな犬は寿命が短い。あっという間にその時がきて、最期は頭に毒が回ってしまい、叫び続け、痙攣するような姿になってしまった。
ゴールデンをめぐるいきさつに責任を感じていたか、また姉の、ペットに対する態度に対してか、たぶんその両方で、格安で往診してくれていた件の獣医さんも、

もうこの子はあなたの知っていた犬ではないよ。
いつでも楽にできるけど

と何度か安楽死を提案してくれたけれど、姉は近所迷惑を自認しながらも、幸いまわりに犬を飼っていた方々が多かったこともあり、ご理解を得て、自然に息を引き取る最期を看取ることができた。

そして今、手頃な広さのマンションに引っ越した姉はもうペットを飼っていない。
ときどきペット情報は見る。
すれ違った犬の姿も目で追う。

群ようこさんの猫にまつわるエッセイに、内田百間の著作に言及しているものがある。
猫を飼うのは、その猫に先代の猫を重ねるからだ。そうして、猫飼いはとぎれることなく猫を飼い続ける。

我が家の場合は犬だけれど、我が家を駆け抜けていった犬たちは、姿かたちも性格も、すべてが全く違っていた。

でもいちばん違っていたのは、犬を取り巻く私や姉たち、また両親、私の家族たちの心境や状況だろう。

私は最初の犬を3歳で迎え、最後の犬の訃報は遠く離れた地で、同じ年頃の子供を抱えて聞いた。

それぞれの犬を思い出すとき、そのときの自分や家族のことも思い出す。若かった父母、学生だった自分など。

桜のつぼみがところどころ花開いてきた遊歩道で、似た犬を見かけて目で追うとき、わたしはその犬に似た、かつての我が家の犬に重ねて、そのころの自分に出会う。

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