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やまゆり園におもう



やまゆり園の事件から8年がたった。
決して他人事じゃない事件。

当時3歳だった長女は11歳。

当時は起こるはずもない場所で起きた惨忍な事件に恐さを覚えた。
児発に通いだした我が子の周りがあまりにも優しくて温かくて、福祉の場に安心しかなったから。

毎年、ニュースや取材レポなどで想い起こされるやまゆり園の事件。

あーそんな事件あったよね、こわかったよね。
そんな印象の人もいるだろう。

わたしはというと、

毎年恐ろしさを感じる。
悲しさを感じる。

なぜなら、長女の発達の遅さや不安定さ、
周りを巻き込む乱れが、
成長につれ目立つようになったから。

8年前、それぞれの部屋を訪れて呼びかけて返事のなかった人を殺めていった被告。
おそらく長女は名前以外で呼びかけられなければ反応はないだろう。
もしその場にいたらおそらく…などと考えると背中が凍る。


そして、さらに心がしんどくなったのは、
当時の犯人への反応。世の中の障害者に対するさまざまな感情が一気に湧き出た事件でもあると思っている。

そしてなにより、毎年ニュースを見た時に
向き合わないといけないわたし自身の感情。

「信じられない、許せない」
8年前はそれしかなかった。

もちろん今も変わらない。

でも、そんな感情と共に、


わかりたくもないけれど、被告の理不尽な考えを理解してしまう自分もいることに気づく。


だって、どんどん育てにくくなるんだもの。
たくさんのひとに迷惑かけて生きてるんだもの。

育てているわたしだって、しんどいと思う。

極論、じゃあ世の中には迷惑だ、排除したいと考える人間だっているよね。

「月」という映画をまだ勇気が出なくて観れてはいないけど、あらゆる視点、あらゆる価値観をぶつけてくる作品も生まれた。

長女を育てて11年。

違和感や好奇な目は常々感じるけれど、ダイレクトに長女に対して嫌な感情をぶつけてくる人は、まだ出会ってない(妹と弟以外に。笑)。

でも、きっとこの先の長女の人生。
彼女を重荷に、彼女を「害」であるとする人が出るかもしれない。

そんな時、、わたしはどうしたらいいのだろう。

やまゆり園の事件は、障害があろうとなかろうと我が子たちに、「家庭」という小さな世界で毎日ガミガミ「おんどりゃー」と叫んでるわたしに、

「社会」という大きな世界に潜んでいる刃物や爆弾を見せつけてくる。

せめて、わたしのまわり、我が子のまわりの人たちには「長女と出会ってよかった」と思ってもらえるような関わりをしていきたい。

忘れられない。忘れちゃいけない。

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