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反権威の皮を被る権威主義者 #3: 幼稚な女たちは責任から逃れるために専業主婦になる

加藤諦三氏の人生相談で「幼稚な男は無責任な世界を求めています」というのがあった。

これも実家で母親が「権利を主張するなら義務を果たせ」とよく言う。流石は定年までフルタイムの仕事に就いていた人間である。

実家は「毎日が母の日」状態で家事を分担していないと日々の生活が成り立たない状態であったがゆえに、巷間言われるような家事負担だの財布の問題だのを議論するような暇がなかった。

無責任な女の作り方

これもよく言われる話だ。

自分のことは自分でやる、という環境でありながら役割分担のようなものがあると、収納一つとっても揉める。

しかし、世の中にはとんでもない家庭もあるようだ。

 しかし、中には「女性は家庭を守らなくてはいけない」という強い思い込みがあって、専業主婦という生き方を選んでいる人もいるのではないか。そういう考えに基づいて、あれもこれもすべて自分で背負い込んでしまう人というのは、夫を甘やかしてしまっている部分もある。いい歳こいて仕事以外、料理も洗濯もできない、自分のシャツがどこにあるのかもわからない「子供のようなオッサン」を日本社会に大量につくってしまっている。

その一方で専業主婦バッシングもある。

この温度差は何なのか。

そしてこういう見方が出てきているが、間違ってはいない。

この点については自分も指摘したことがある。

そんなわけで、「権利を主張するなら義務を果たせ」と言われたこともなく、無責任な世界を求める女が作られるのである。

女から責任を免除する代わりに権利を剝奪してきたのは誰か?

このような無責任な在り方が続けられなくなってきているのは明らかだ。
特に経済的な理由で。

そんな中、第3号被保険者制度や配偶者控除の見直し・廃止の議論が浮上してきた。

このようなパターナルな制度があるが故の問題、それが専業主婦幻想だろう。

それにしても配偶者控除や第3号被保険者制度が、雇用機会均等法と同時期に導入されたのは、今から思えば謎である。

経済界の「専業主婦という消費しかしない存在を、"パートのおばちゃん"という安い労働力として引きずり出し、資本主義経済のシステムに組み込む」という本音があったのではないか、というのが私見だ。

そして、その背後には製造業中心からサービス業中心への経済構造の転換ががある。

そしてミシェル・フーコーの議論、近代産業社会が個人を健全な市民として包摂する条件は以下の2つ、という主張を引用すれば、

  1. 「当該社会において認められる種類の生産労働に従事し得ること」

  2. 「当該社会において通常とされるかたちの家庭を営み、子どもを産み育てることができること」

前者の要件の重要性が肥大化し、後者が軽んじられてきたのではないか、と指摘したい。

男女雇用機会均等法以前へのバックラッシュは待ったなし

「当該社会において通常とされるかたちの家庭を営み、子どもを産み育てることができること」ということが軽視されるということを掘り下げれば、本邦特有の事情としての「共同体存続規範の欠如」を挙げたい。

しかし、人口問題を考えれば少子化と、その背後にある少母化への手当てが必要という指摘が今更ながら注目を集めている。

そして反動的な政策の必要性を訴える声が大きくなり始めた。

実は個人的には歓迎したいことではある。

但し、経済的・社会的な不安を感じることなく母親になれる女性を増やすこと、それが「反動的な政策」の目的であること、が条件だ。

更に注意することがある。

上野千鶴子が出産育児言説に付き纏う反動性に敏感だったことを思えば、何らかの形で「保守的」な価値観をインストールせよ、という命題になってしまうことだ。

これが統一教会を巡る騒動の取り扱いが難しい理由の一つ。

注意することとすれば、統一教会のゴールはカルト国家の樹立だ。

母親になりたくない女たち?

神田沙也加の転落死について直観したことがある。

上の拙稿で指摘したのは

子どもを作りたくないのではなく母親になりたくない?

最初は親の七光りと言われながらも、舞台女優として両親とはいささか違う道、領域で活躍の場を自ら見出した神田沙也加。

芸能人ならではの男性遍歴の噂もさておき、俳優の村田充と結婚するも後に離婚。離婚原因は村田充は子供を欲しがっていたが、神田沙也加は子供を作りたくなかったらしい、という。

神田沙也加は離婚理由の中で「生きてきた環境の中で持った考えを変えられず」と語ったそうだが、これも母・松田聖子の影を感じずにはいられない。

母親のようになりたくないと思っていたのではないだろうか?

という点である。そして

社会的に見れば、神田正輝・松田聖子離婚は「女性のロールモデルの崩壊」を象徴したが、神田沙也加の転落死は「女性の社会的成功の代償」を象徴しているのかもしれない。

それは、夢を叶えるどころか、夢を見ること自体の終わりを象徴しているのかもしれない。

とも書いた。

己の母親を反面教師として学習する、見てしまう結果が結婚難として現れていることも過去から指摘されていたことだ。

拙稿では小倉千加子の著作を引用した。

結果的に「母親になること」忌避する女性が作られる。

とにかく結婚、出産、育児にまつわる言説が、不平不満系ばかり流通している現状も、そのような傾向を加速させている、という要因もあるだろう。

そして「母親」と「女性」の分断。

この問題が母権パターナリズムという厄介な問題を産んでいるのだが、それはまた別の話。

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