転生したらリンゴの木だった

目が覚めたら、あなたはリンゴの木だった

毎日農家のおじさんが世話をしてくれる

「おいしいリンゴになるんだよ」、と

雨の日も、風の日も


虫に襲われれば、薬を投与してくれて

栄養が不足すれば、肥料をくれる


1年

暑い日も

寒い日も

どんな日だって、文句も言わず
(まぁ木だから言えないんだけど)

今年は、大粒の真っ赤なリンゴが沢山なった

農家の人は大喜び

「よくやった」

ねぎらいの言葉と共に、優しく枝をなでてくれる

私は張り切った

それから数年、毎年真っ赤で大粒のリンゴが沢山なった

もちろん、私は努力を怠らなかった
まぁ、おいしいリンゴになれと願うくらいしかできることはないけども
それでもしっかり願った

ある年、ほとんどリンゴがならなかった
できても未成熟な、小さいリンゴがほんの何個か

「役立たず!」

とおじさんに罵声を浴びせられた

原因はわからない

翌年

昨年と違って、今度はしっかり大きなリンゴができた

おじさんは「よくやった」と褒めてくれた

さて来年はどうなることやら


リンゴは文句を言わない
退職もしないし
どう声をかけても、精一杯生きている

けど人間はどうだろうか?

リンゴがおいしく沢山できたか

リンゴに木の評価は、それだけである

人間の評価はそれでいいのだろうか?


そんなん、評価者の勝手なんだけど
評価される側はどう思うのか
来年もおいしいリンゴを一生懸命作ってくれるかね

もっと評価できる所に行っちゃったりしないかね


と、ここまで書いて思うのは

評価する側にそこまで求めるのもどうかって事

リンゴだったら、結果で評価するのも良いじゃない
収穫量があって
病気に強くて
育てやすくて
私は農業には詳しくないけど、仕事でやるなら儲かるリンゴを育てた方が良い訳で

(細かいこと言えば、環境への影響とか細かい事も考えるべきなんだけど、シンプルに言えば、より売れるリンゴを選ぶのは合理的な判断のはずなのね)


どういうことかっていうと

リンゴの木みたいな感じなら
やっぱり結果で評価されちゃってもしょうがない側面もあって
全て評価者が悪いっていうのは、ちょっと人間に期待しすぎで

一方で、結果だけでなくプロセスも評価されたい
そう思うのは評価される側の偽らざる本音なの

私たちはリンゴの木じゃなくて
ちゃんと、プロセスも評価される事やってるかな?

もちろんね
評価するとき、
「ちゃんとプロセスも評価する必要あるかな」
って考えることも大切だとは思うのよ


あなたはこのリンゴの木、どうやって評価しますか?


あーでも、なんかポジティブな事言うと良く育つらしい
毎日ほめるかも

でもそうすると、期待しちゃって、上手くいかなかったら・・・・・・


と言う、脳内対話でした

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