見出し画像

さて、どうするか?この鞄


重く膨れ上がった鞄は決まった置き場所があるわけではなく、いつも無造作に置いてあった。

たくさんの書類、本、バインダー、大中小さまざまなサイズのクリップ、ポストイット、鉛筆、ホワイトボード用マーカーと、数色のラインマーカーなどこまごましたものとラップトップが入っていることは知っていた。

持ち主は夫だ。

夫は米国の州立大学の教授という職業だった。週に2日、夜から始まる3時間のクラスを受け持っていた。米国の大学では夜遅くまで授業があるが、夜型の夫にとっては好都合だった。夫の仕事にたいした興味はなくどんな内容のことをどんなふうに教えていたのか、わたしは知ろうともしなかった。

夫は、授業が終わって家に帰ってくると、気の向いた場所に鞄をドカンと置きテレビを見たり、本を読んだりしてくつろいだ。

ときおり、鞄をどこに置いたのか忘れて探していた。「探すくらいなら決めた場所にちゃんと置けばいいものを……」というわたしの小言などは、すべてスルーだ。まるで「聞きたくないことは聞こえない耳」を持っていたようだ。

学者として必要なことには几帳面な反面、無頓着なところも多々ありで、鞄の中身はたいせつでも、どこに置くかはあまりだいじなことではなかったのだろう。次のクラスに備えるために鞄を開き、新しく整えるとまたその鞄を抱えて仕事にでかけた。夫にとっては、仕事に必要なものがなんでも入っているたいせつな鞄だった。

米国の大学には、どこでも大学のイメージカラーがある。夫が勤務する大学はえんじ色と黄色だった。鞄の中にはその二色でデザインされた大学のロゴ入りのファイルやボールペンなどもごちゃごちゃと入っていた。

夫の気分であっちにホイ、こっちにホイと置かれる鞄を、「またこんなところに置いて」とぶつぶつ言いながら、邪魔にならないところに移すことはわたしの日常のひとコマで、どかされてしまった鞄を探す夫の姿もまた我が家の日常だった。

ある日をさかいに、そのあたりまえにあったひとコマがなくなった。

コロナパンデミックがスタートした昨年の3月、夫はステージ4の大腸がんの宣告をうけたのだ。コロナ禍での過酷な闘病が始まったが、幸いにもパンデミックで大学の授業がオンラインとなり、闘病ちゅうも病床から授業を続けることができた。

鞄を持ってでかける必要がなくなり、鞄はずっと部屋の隅に置き去りにされた。治療も虚しく七ヶ月の闘病の末、夫はこの世を去った。鞄は二度と夫により開けられることはなくなった。

生きているころには、夫の鞄をどかすことはあっても、中を覗くことはなかったが、整理のために中を見た。遺業とみられる書きかけの論文、資料、やることリストがそのまま残されていた。

たくさんのペンに紛れて、個別包装のチョコレートにグラノーラバーとキャンディも出てきた。そして、耳かきが一本。

自分のオフィスで仕事をしながら、おやつにチョコレートやキャンディを頬張る元気だったころの夫の姿が目に浮かんだ。出てきた一本の耳かきを見たら、たまらなくなった。夫がたしかに生きていた“生の証”を発見したような気がし、「もういない」といういい知れぬさみしさを思い出した。

またしてもじわっときた。いつになったら涙はでなくなるのだろうと思いながら、黒くて重い鞄の中身を処分した。

空になった鞄を処分すれば、たしかにあったこれまでの日常のひとコマも忘れてしまいそうで……さあ、この鞄をどうしようと考え込んでいる。






🌺 共感、応援いただけるならとびあがって喜びます。 そして、その喜びと感謝を胸に次のどなたかに恩送りします。