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短編小説 『黎明』 #13

1話

前話


いつの間にか太陽はとっくに昇り、世界を照らしはじめている。夜中から仕事をしている自分にとっては「折り返し地点」だが、世間一般的にはやっと「朝」という感じなのだろう。

それも、人によってはまだ起きる時間ですらないはずだ。布団の中でまだまどろんでいられる時間帯なのが羨ましい反面、自分は暗くなるまで働かなくてもいいのが特権のようなものだ、とも感じた。
 
夜中に働いているうちは、夜行性の動物のように陽の当たらない暮らしをしているように卑屈な気分になるが、朝がやってくると不思議とその気分が少し和らぐ。自分が社会の一員に加わっているような気分になるからだろうか。
 
ふと隣に目をやると、ジャージ姿のスピカが組んでいた足を解き、普通に座り直しているのが見えた。乗り始めた当初は暗くてわからなかったが、いまならよく見える。

はっきりいって異常事態なのだが、ここで別れるのが名残惜しいような、そんな気分にもなっていた。こんな形じゃなく、もっと全然別の形で出会えていたなら、また少し違った展開にもなっていただろうか、と思った。いや、そんなことを考えても仕方がない。
 
急に空気が薄くなったように気まずい気分になり、何かを話さなければ、と思った。



「そういえば、どうして工場の場所を知ってたんですか?」
 
先ほど感じた疑問を口にした。
 
スピカはちょっと驚いたような表情になった。

「工場の場所?」

「このトラックが工場に戻るっていうのは確かにそうなんですけど。普通の人はパン工場がどこにあるかなんて知らないと思うので。なんで知ってたんですか?」

「え? だって大きい工場じゃない。知ってるよ」

「そういうもんですか」

「そういうもんよ」
 
ただはぐらかされているだけのような気がしたが、そう言われるとそれ以上は追求できなかった。水掛け論のようなもので、答えなど出ないだろう。
 
朝になったことで、道路も混み始めている。さて、どうしたものか、と思った。確かに工場は駅から比較的近いが、駅まで寄る余裕はないし、記録が残るので正規のルートを外れて走ることもできない。

もう工場まではだいぶ近くなっているので、適当にこのへんで降りてもらうしかないのか、と思った。
 
だが、道は幹線道路のため、ちょくちょく信号で引っかかったりするものの、人が簡単に乗り降りできるような状況ではない。

「幹線道路から出たところで、適当に停めてくれていいよ」とスピカが言った。はい、と返事をしたものの、適当なところで出られるような場所はなく、事務所や工場は幹線道路のすぐそばにあるので、出たところに駐めるということはそれらの近くに駐めることを意味する。

同僚たちに見られないか心配ではあったが、もうここまできたらどうすることもできない。ちょっと脇道に外れて、なんとかするしかないだろう、と思った。
 
やっとこの状況が終わる見通しが立ってくると、急に脱力するように力が抜けていった。安心したのかもしれない。
 
しかし、今日のことは間違いなくずっと記憶に残るだろうな、と思った。この仕事をしていて真に恐ろしいことがあるとするなら、それはおそろしいほど速い時間の経過だった。

毎日、特別なことを要求されるわけでもなく、同じルート、同じ店舗に納品し続ける。もちろん配送しているパンそのものは毎日違うものだし、種類や量も日々変化しているが、変化はそれだけだ。

少なくとも自分の記憶に留めておこう、と思えるものは少なく、変化が乏しいとどんどん忘れていってしまう。

何かトラブルが起きたり、異常なことがあったりすると記憶には残るのだが、下手をすると一ヶ月分ぐらいの記憶がまるまるなかったりもする。

要するに、何かの変化を記憶として捉えていて、それが時間の感覚につながっている。何も変化が起きなければ、時間が流れていないのと同じだ、ということなのだろう。
 
自分の感覚としての時間は止まっていても、もちろんそんなことに関係なく世間は動いている。自分も、一年に一歳ずつ確実に歳をとる。営業をやっている同期は、とっくに独り立ちして、顧客を持ったり、新規に開拓をしたりしているようだ。

時間の感覚が希薄だと、頭の中が靄がかかったように不透明で、ぼんやりしてくるところもあった。



こんなことをしていていいのだろうか? 自問は何百回もした。だが、どうすることもできなかった。辞めるにしても、まだなんの経験も積んでいない。
 
スピカとの出会いはどういう形であれ、記憶に残ることは間違いないだろう。あれはなんだったんだろう、と数十年後も振り返ったりするのだろうか。

それとも、あまりにも奇妙すぎるので、夢のようなものだった、とこれまた記憶から消去してしまうのだろうか。
 
そんなことを考えているうち、トラックは事務所近くの交差点に差し掛かった。交差点を右折し、本来ならさらに左折するところを、直進する。そのまま、空き地のようになっているところにトラックを止めた。

「ここでお別れです」
 
さっきも言ったような気がするが、もう一度同じことを告げる。

「まあ、そうだね」
 
スピカはあっさりと言い、ドアに手をかけた。「また会えるといいね」
 
何かを言おうとしたのだが、そのままドアを開け放って、スピカは外に出た。

「駅は、あっちです。わかりますか?」

「うん、わかる。たぶん」

「じゃあ……」
 
歩き出そうとするスピカに向かい、「ありがとうございました」と声をかけていた。言ってから、いや、なんだそれ、と自分で呆れた。
 
スピカは一瞬笑顔を作ってから、じゃあね、と言い、歩き始めた。
 
だが、妙なことが起きた。スピカは、駅だと言った方向と逆に歩き始めたのだ。

「ちょっと、スピカ!」
 
僕は窓を開けて叫んだが、スピカはこちらを振り返ろうともせず、すたすたと歩いて行ってしまう。そちらは工場の方角だった。そして、すぐに角を曲がって、見えなくなってしまう。
 
呆気にとられたが、どうすることもできなかった。すべては終わったのだ。
 
トラックを元のルートに戻し、工場のへと向かっていった。
 
事務所のそばを通過したとき、信じられない光景を目にした。

先ほど別れたはずのスピカが、ジャージ姿のまま、事務所の中に入っていったのだ。


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