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「エデンに堕つ」 相田宗介編 #007

 再び画面はなぉちーの顔のアップ。さっきにも増して小声で続ける。
〈はい、めっちゃ集中してますよねぇ。でもそんなの関係ねぇな。中に潜入します〉
 なぉちーはカメラを持ったまま部屋の中に入る。中央の低いテーブルの前で、あぐらをかいて集中してパソコンに向かっている『ひびき』はこちらに気付いていない。スウェットにポニーテール、大きなヘッドフォンを装着して、こちらに背を向けている。
 カメラはさらに近づく。棚か何かの上にカメラが置かれたのか、視界が急に固定される。
〈だーれだ?〉
〈ちょ、ちょ、ちょ〉
〈だーれだー?〉
〈ちょっと、もぉ。聞こえないから、バカ〉ひびきはヘッドフォンを外す。
〈はいはいはいはい誰でしょうか?〉
〈なおでしょ〉
〈当たりー!〉
〈しょうもないことしてんじゃねーよ。いま締め切りほんとやばいんだって。朝までに送んないとやばいやーつ〉
〈まあまあまあそんな多忙な響ちゃんに奈央ちゃんから差し入れですよ。ケーキ買ってきたから、良かったら食べてぇ〉
〈なんのケーキ?〉
〈目つぶって!〉
 なぉちーは目をつぶっているひびきの口の中にケーキを入れる。すぐにひびきが反応する。
〈あ、おいしー、なにこれー〉
〈セブンの新作でーす〉
〈ほんとに?〉ひびきが目を開ける。〈えー嘘。やばくない? すっごいおいしいこれ〉
 しばらくひびきの視線はカメラからはずれ、カメラの上に位置しているはずのなぉちーのほうを見て少し笑う。
〈えー絶対違うよ。だってこれコンビニスイーツじゃないもん。……違うっしょ?〉
〈えーすごーい。本当にわかったんだ。はい、こちら、渋谷のスイーツ屋で買って来た……渋谷のスイーツ屋の……〉
〈言えてねぇじゃねぇか〉
〈どっかのケーキです!〉
〈開き直んな〉
〈ねえねえ、じゃあ、どういうところが普通のケーキと違うん?〉
〈うーん、こう、……マイナスイオン的な?〉
〈あのマイナスイオンが! 他には?〉
〈他には……ヒッグス粒子的な……〉
〈意味わかんねぇよ! 食レポ下手クソか!〉
〈ガイガーカウンター的な……〉
〈おいやめろ!〉
 食事が終わったので、宗介はそこで動画を止めた。
 画面から視線を外し、デスクの横のラックに収められているアクリルケースに目をやる。ハリネズミのそに子は丸まって、まるでたわしのようなヴィジュアルになっている。
 一般的にハリネズミは夜行性と言われているが、どうもうちの子は、自分と同じ時間に寝起きしているようだ。睡眠の妨げになっては悪いと思い、宗介は間接照明をひとつパチリと切る。
 食事も終わったので食器を流しに持って行き、そのまま洗う。洗った食器をひとつひとつ台所の横の台に並べていく。ここまでがワンセットだ。何も考えず、無意識の範疇で実行に移せる範囲の、日々の習慣。
 宗介はふたたび部屋に戻り、デスクに向かって椅子に腰掛けた。ゆっくりと部屋の中を見渡す。ささやかな給料と時間を注ぎ込んで作った、自分の快適さに特化した空間だ。
 いま座っているこの椅子だけでも五万はする。腰や肩に負担がかからないデザインを標榜する、少し値の張る椅子だ。デスクそのものはさほど高価ではないが、面積は普通の一人暮らしで使うような机の倍はあるだろう。
 そして、そのデスクの中央に陣取っているのがパソコンで、これはデュアルディスプレイだ。黒塗りのキーボードの近くには、作曲用のMIDIキーボード。作曲は十年ほど前に始めた。いまはパソコンでどんな音楽でも簡単に作れると聞いていたし、なんとなく、一度道具さえ揃えてしまえばさほど金のかからない趣味に思えたからだ。それは事実その通りで、十年前に一度行っただけの初期投資で、今の今まで作曲という趣味を宗介は楽しめている。宗介にとって、パソコンで作曲をするということは、ちょっと自由度の高いゲームを遊ぶようなものだ。少し高価な玩具を与えられた子どもの感覚に近い。(つづく)


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