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短編小説 『黎明』 #01

耳元で黒電話がけたたましく鳴った。もちろん本物の黒電話ではなく、スマートフォンの着信音だ。ベッドで眠っていた僕はなんらかの夢を見ていたはずだが、そんなものは一瞬で消し飛び、出し抜けに現実に放り出された。

「もしもし」
 
喉がカラカラに乾いていて、思っていた数倍は掠れた声が出た。思わず咳払いをする。

「あ、もしもし? 何かあった?」
 
電話は当直の田中さんからだった。月明かりに浮かぶ掛け時計に目をやる。時計の針は、午前零時を示していた。

「すみません、寝坊しました! すぐ行きます!」

「了解了解。キミ遅刻なんて滅多にしないからさ、珍しいなと思って。念のために電話入れてよかった。じゃ、待ってるから」
 
用件はそれだけで、すぐに電話は切れた。布団をはねのけ、部屋のあかりをつける。洗いざらしのポロシャツをハンガーから外し、椅子の上に脱ぎ捨ててあるズボンを掴んだ。カバンは昨日帰宅してから全く中身を出していないので、そのままでいい。一分ほどで身支度を終えると、転がるように家から出た。
 
静まりかえった住宅街を自転車で駆ける。初夏が終わり、しっとりと水気をふくんだ生ぬるい風が顔に吹きつける。ふだんはコンビニに寄ってスポーツ飲料を買ってから出勤するのだが、そんな余裕はもちろんない。
 
会社に着くと、事務所の脇にある駐輪スペースはすでに自転車で埋まっていた。それを掻き分けて自分の自転車を停めると、事務所のガラス戸を開け放った。

「おはようございます!」

「あ、きたきた。おはよう」
 
電話をくれた田中さんがこちらを見て手を上げた。事務所の中には誰もおらず、照明も必要最小限だけで、ガランとしている。
 
僕は田中さんの座っているデスクの前の椅子に座る。田中さんが手早く、小さなビニール袋に入ったプラスチック製のストローを手渡してくれる。僕はポケットから財布を取り出し、免許証を渡した。田中さんは受け取り、机の上に載せている機械に読み込ませる。

「はい、どうぞ」
 
田中さんの合図で、僕はプラスチック製のストローを金属製の穴に差し込み、思い切り息を吹き入れる。乗務開始前のアルコールチェックだ。

「はい、オーケー。睡眠時間は?」

僕は少し考えて、七時間、と返す。

「ずいぶん寝たね。じゃ、これ鍵。ご安全に」
 
僕は事務所の掛け時計に目をやる。時刻は零時半に近かった。間に合うだろうかと不安になったが、焦っても仕方がない、と覚悟を決めた。
 
事務所を出て、向かいにある工場の敷地に入る。無数のトラックが工場にアイドリング状態のまま横付けされており、かなり騒がしい。人は誰も見えない。僕はカバンから髪の毛飛散防止用の網帽をかぶり、その上から会社支給のキャップを乗せた。工場脇に設置されている白い階段を登り、重い扉から中に入る。その奥にエアシャワー室があるが、何年も前から壊れているらしい。

「遅い! 間に合うか?」

いつ入っても、工場の中はすごい音だ。扉から入ってすぐのところに工場の出荷場の人が立っており、叫ぶように声をかけてきた。短く「遅れました」とだけ言い、配分場の中に入っていく。配分場はかなり広い空間で、アルミの床にプラスチックでできたレーンが無数に伸びている。そのレーンの内側に番重と呼ばれるケースがタワーのように積み重ねられており、その中に店舗ごとにパンが仕分けられている。

自分の担当レーンまで駆け寄った。積み込み用トラックバースの隣に、配送ルートの番重タワーが林立している。それをすべて積み込まなくてはならない。

トラックの荷台のライトをつけると、それらをひとつひとつ、トラックの奥から積み込み始めた。番重の下には台車を噛ませてあり、積み込み自体に力は必要ないが、うまく番重を傾けて台車を抜く必要がある。気を抜くと倒れてしまうので、神経を使う。トラックの中はちょっとしたワンルームマンションぐらいの広さがある。

「寝坊か?」

夢中で積み込みをしていると、隣のコース担当の清水さんが話かけてきた。すでに積み込みは完了したのだろう。

「寝坊です」

「焦るなよ。あ、そうそう、今日も配分が終わってないのがあっちにあったぞ」

そう言いながら、積み込みを少し手伝ってくれる。時計に目をやると、すでに出発時刻である一時をまわっていた。

「じゃ、先行くから」

清水さんはそう言うと、あっさり出て行ってしまう。隣のレーンのシャッターが降りる音が聞こえた。僕は黙々と積み込み作業を続ける。ほとんどのトラックが出発してしまい、騒がしかった出荷場がだんだん静かになっていくのがわかった。

やっと積み込みが終わり、時計に目をやると、一時半になるところだった。いつも一時には出発しているので、三十分も遅れていることになる。出発しようと思ったそのとき、仕分けが終わっていない荷物がある、と清水さんが言っていたことを思い出した。

レーンのはずれに自分の担当コースの番号が振られた番重タワーがあった。急いでそれを自分のトラックに運ぶ。ほかの工場で生産されたパンで、仕分けに間に合わなかったものはこうして配分されないまま直接ドライバーに渡される。ドライバー自身が配送しながら、店舗ごとに数を確認して納品するのだ。

すべてが終わると一時半を回っていた。僕は駆け足で工場を出て、トラックに向かった。


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