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「エデンに堕つ」 桜田優編 #022

 板橋の強張った表情は変わらない。板橋とは、仲が良かったわけではないが全く知らないわけではない。同じ会社の新卒の同期だが、新卒は二十人しかほどしかいなかったので、顔を知らないわけがない。だが、確か直接話したのは、新人研修のときと、その一年後の研修のときぐらいのはずだ。だいたい、こっちが知っているのだから、向こうが知らないということはないだろう、きっと。
「もしかして、桜田?」
 板橋がぼそりと言う。優はそれを聞いて、少し笑う。
「あ、わかってんじゃん」
「いや、全然わからん。なんで君がここにいるのか、全く。そういえば、会社やめたって聞いたけど」
「お、そんなことまで知ってるんだ? でもやだなあ、覚えてないんだぁ、昨日のこと」
「昨日のこと?」
「もう! 大変だったんだよぉー」
 優は短い自分のピンクの髪をねじりながら笑う。もちろん、記憶のない相手を混乱させるための演技だが、大変だったことは本当なので、あながち間違ってはいない。
「いや、ごめん、まったく覚えてない」
「え? ほんとに?」
「なんかまずいことしたんか、俺?」
「いやぁー、まずいことは別にないんだけどねぇ」
「けど?」
「あんなことされちゃったら、もうあたし、お嫁に行けないなぁ」
「え……」
「気になる?」
「うん」
「ちょっとぉ、女の子になんてこと言わせんだよぉ」
 板橋は絶句する。優は、別に自分は何も嘘を言っていない、と自分で自分に言い聞かせる。確かに、よく知らない男が、目の前でズボンを脱ぎ始めたら、嫁に行けないほどショッキングな出来事なのは確かだ。
 優の思惑はとにかく、目の前に立っている板橋はどうやら衝撃を受けている様子だったので、別にこれ以上からかわなくても大丈夫かな、と目星をつけた。
 板橋は自分のポケットから自分のスマホを取り出して画面を見ると、もう行く準備せんと、と言った。
「どこ行くの?」
「会社だよ!」
 板橋は叫ぶ。そうか、会社か。なんだか懐かしい響きに、優はきょとんとしてしまう。板橋はベルトを締めると、床に置いてあったカバンを手にとり、部屋を出て行こうとする。
 優はソファの上に座ったまま、それを見送る。ドアから出ようとするとき、板橋は振り返った。
「今日ずっと、ここにおるつもりか?」
 優は頷く。板橋は何かを考えるように、一瞬固まったが、財布から鍵を取り出すと、優に向かって投げた。
「もし帰るんなら、ドアのポストのとこに鍵、入れといて」
「あたし、帰らないよ」
「は?」
「ごはん作って待ってるからね、ダーリン」
 板橋はしばらく固まっていたが、やがて背を向けて部屋を出ていった。ちょっとサービスしすぎだったかな、と優は後悔したが、いや、あれぐらいわかりやすいほうがあの男にはちょうどいいはずだ、と思い直した。
 玄関から板橋が出ていく音が聞こえ、優は文字通り、部屋に取り残された。いや、その表現は正しくないかもしれないが、とにかく、一人きりになった。
 こうしてみると、社会不適合者と思われた板橋は真面目に会社に行って働き、自分はこうしてソファに寝転がって惰眠をむさぼることもできる。本当のダメ人間は、どちらだろうか。ま、どっちでもいい。
 しかし、いくら交流が少なかったとはいえ、板橋はこちらを見てもすぐには自分だとわからなかったのだから、このピンク色に染めた髪は、一定の変装効果はあるということだろう。それとも、彼が気づかなかったのは、また別の要因によるものなのか……。
 実際のところ、髪型ひとつで人間の印象は変わる。髪型だけでも変わるのに、色まで変わったら、人格が変わったに等しい変化だろう。もともと優は黒髪のセミロングで、おまけに黒縁のメガネをかけていたから、その変化の振り幅はすごかったのだろう。
 優はソファにふたたび寝っ転がったが、カーテンの隙間から入り込んでくる朝日が目に飛び込んでくるので、目を細めた。
 「ダーリン」の機嫌を損ねずに、うまくこの家に居続けることができたなら、まだしばらくこの街にいることも可能だろう、と考えた。とりあえず、もうしばらくは、ネカフェを探す生活から解放されそうだ。とりあえず、「ダーリン」の帰宅までに、部屋の掃除だけは完璧にやってしまいたいが、優は迫り来る睡魔にはどうしても勝てなかった。
 優はスマホを取り出すと、イヤホンを耳に挿し、昨日まで聞いて居た宗介の部屋の音声の続きを聴きながら、本日二度目の眠りの世界に入ろうとしていた。

(早見響編につづく)


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