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「エデンに堕つ」 相田宗介編 #004

 別れを切り出した優は、それと同時に会社も辞めた。だが、それを本人から聞いたわけではなく、社内で、人づてに聞いた。『エデン』のアカウントも完全にログアウトしているようだったし、いわゆる音信不通状態になった。いまの時代、『エデン』を起動させずに生活を送ることは限りなく難しい。ビジネス利用やコミュニケーションツールとしてだけではなく、たとえば決済も『エデン』を介して行うことが増えている。新しいIDを取得したのだろうか。
 宗介はiPhoneを開くたびに優のログイン状態を確認し、仕事をしているときも、休日も、そのことばかり考え続け、何に対しても全く集中できなかった。だから、普段はiPhoneの電源を切るか、機内モードにするのが普通になった。
「何、怖い顔して。仕事でいやなことでもあった?」
 優がこちらを覗き込みながら言う。よくみると、瞳までピンクがかっている。カラコンでもしているのだろうか。いや、別に、と適当にごまかし、パソコンデスクの横にある、アクリルのケージに目をやる。
 ケージの中の家から、飼っているハリネズミの「そに子」がヒクヒクと鼻を動かしながら出てくる。餌の時間と思ったのかもしれない。
「あ、そに子だ。相変わらず可愛いぃ。元気だったかー?」
 優が声をはずませてケージを覗き込む。ハリネズミはあまり人に懐かないが、優のことは憶えているのか、少し匂いをかぐような仕草をした。
「相変わらず可愛いなぁ、お前は」
 優はそに子に触れようとしたが、すぐに手を引っ込めた。そして、短い髪を耳の上にかきあげ、こちらをちらっと見る。
「あまり触らないほうがいいね?」
「なんで」
「なんとなく」
 優は着ているパーカの袖口をめいっぱい引っ張り、ほとんど手を覆い尽くしたような状態でベッドに座り、手をついた。そして短くため息をつく。
 宗介は優が何かを言うんじゃないかとしばらく待ったが、彼女は何も言わなかった。奇妙な沈黙が流れた。宗介はそんな彼女を見て、自分の精神状態がひどくニュートラルな状態であるということに気が付いた。悲しい、とも感じないし、寂しい、とも感じない。生身の状態の優がそこにいるということがなんとなく、現実として受け入れがたいことのように思えてきたからかもしれない。一言でいうと、現実感がまるでない。
 優はしばらく俯いていた。合計で三十秒ほどの短い時間だった。顔をあげると、キョロキョロとあたりを見渡し、メタルラックの一角に自分の荷物が固まって置いてあるのを指差した。
「あ、あたしの服。まとめておいてくれたんだ」
「……いつか取りに来ると思って」
「そりゃ、いつかは取りにくるわな。あたしの私物なんだから」
「だから、まとめといたんだよ」
「よかった、ほんとに断捨離しすぎて、大変だったんだよぉ。着るものほんとなくて」
「断捨離?」
「そう、家も引っ越して」
「え、引っ越したの?」
「そう。いまはもっと狭い家だよ」
 だったら、もっと早く来ればよかったのに。宗介はその言葉が喉まで出かかったが、そのまま口をぱくぱくして、やっぱり飲み込んだ。
 優は立ち上がると、固めて置いてある自分の荷物を手に取り、部屋を出ていった。そのまま、玄関に置いてある、自分のトランクの中に詰め込んでいるみたいだった。それは一回では運びきれなくて、優は黙って部屋と玄関をもう一度往復した。宗介はそれを手伝おうかと思ったが、椅子に座って呆けたようにそれを見ていた。(つづく)


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