見出し画像

「エデンに堕つ」 桜田優編 #011

 午後九時をまわったマクドナルドには、けっこうたくさん人がいる。高校生ぐらいの学生カップルが机の上に参考書を広げている脇で、ヘッドフォンをつけたOLふうの女性が色彩検定の問題集を解いている。ここにいる人たちは、勉強にしろ、読書にしろ、何か目的をもってここに来ているのだ。こんな時間に、ただなんとなく、時間をつぶすためだけにここにいる人はいない。そんな暇な人間は自分ぐらいのものだろう、と思いながら、優はアイスカフェオレをストローから啜った。
 時計を見てもさっきからまだ十分ほどしか経過していない。近くのインターネット・カフェが、割安料金のナイトパックを開始するのは十時からなので、まだ、あと五十分ほどはここで時間を潰す必要がある。
 特に目的もなく、こうやってマクドナルドで時間を潰すのはけっこう大変だった。これまでの人生では、時間というのは足りないのが通常の状態であって、まさか余ることがあるなんて、想像もしたことがなかった。今は、いかにして日々の退屈をやりすごすか、それだけを考えて生きている。
 幸いにも、ここのマクドナルドには席にコンセントがあるので、携帯の充電ができる。優はその電気をありがたく頂いていた。スマホをつけ、『エデン』を起動する。最近、新しいアカウントを取得して、もっぱらそのアカウントしか使っていない。実名アカウントはもちろん、それまで使っていた匿名アカウントも最近は凍結している。
 この新しいアカウントは、誰にも教えていない。このアカウントは『桜田優』のアイデンティティを所有していない。『何者か』のアカウントなのだ。
 優はスマホを操作すると、『エデン』内の、あるメッセージアプリを立ち上げた。新しい通知は入っていない。まだ、宗介は家に帰っていないらしい。このところ残業が続いているようで、家に帰ってくるのは、だいたい十時半ぐらい。時には零時をまわることもある。九時台に帰ってきたことは、ここ二週間のあいだでは、一度もない。
 二週間前、最後に宗介の部屋に行った時、優は密かに宗介の部屋に盗聴器を仕掛けた。ネット通販で購入したもので、おもちゃみたいな安物だが、ごく普通の、分岐用の電源タップの中に仕込むことができる。ドライバで分解し、その盗聴器を収め、電源が供給されるように細工する。本体もマイクも、小指の先ほどの大きさだ。事前に、Wi-FiのIDとパスワードを設定しておくと、Wi-Fiを通じて密かにネット接続し、盗聴した内容をアップロードしてくれる。さらに、音を感知すると『エデン』のメッセージアプリに通知がくるオプションつきだ。
 こんなの、どう考えたって犯罪にしか利用されないに決まっているのに、この至れり尽くせりな顧客第一のクオリティには苦笑してしまう。もっとも、その製品をありがたく使わせてもらっている自分がどうこう言うことではもちろんないのだが。
 盗聴器を仕掛けるときはさすがに緊張した。宗介がこのところ早い時間に帰ってこないことはわかっていたが、それでも万が一ということがある。事前に彼にメッセージを送って、『既読』がつくかどうかを確認した。(つづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。