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「エデンに堕つ」 早見響編 #023

 マンションを出てすぐのところに石畳の商店街がある。どこにでもある地方都市のような顔をしていながら、不意打ちのように見せる都会っぽさに、はじめてここに来たときは新鮮な驚きがあった。石畳の両脇には寿司屋、イタリア料理店、カフェなどが軒を連ねていて、アーケードも洗練されている。
 もっとも、そんな風景が見られるのは駅前のほんの数百メートルの空間だけだ。だが、ここに住んでいるかぎり、それぐらいの範囲で生活の大半は事足りる。
 そもそも、生活に必要な買い物はほぼネット通販で完結するので、外を出歩く必要もないのだが、ずっと家の中にいると鬱屈した気分になってくるので、一日に一度は外を歩くようにしている。そのとき、徒歩で行けるショッピングモールの中にあるジムには、時間を決めて毎日通っている。この仕事では、誰も生活の管理なんてしくれないので、自分のスケジュールは自分で管理しなければならない。ダラダラしはじめると際限がないので、自分を律することが必要だ。
 相模大野レガロの鉄扉を開け、スターバックスの店内を見渡すと、一階の席はほぼ埋まっていた。響はカウンターで抹茶ティーラテを注文し、どこに座るか少し考えた。飲み物を受け取ると、二階席に足を運んだ。
 座ろうと思っていた席があいていたので、ほっとした。響は壁を背にして、奥側の席に座る。
 ショルダーバッグからノートとペンを取り出す。普段、家にいる時はパソコンで文章を書くことが多いが、持ち歩くのが面倒なので、外では紙にペンで文字を書くことが多い。
 よく、紙に文字を書くほうがパソコンで文字を書くよりも自由な発想ができる、と言う人がいるが、特にこだわりはない。手で文字を書くのも、パソコンで文字を書くのも、響にとっては同じことだ。もともと、言葉は音声にして発せられるものであったはずで、文字はたんにそれをビジュアライズしただけだろう。すごいのは、音声言語を記号化したその行為であって、紙に文字を書くか、パソコンで文字を書くかは、ほんの些細な違いでしかない。
 そう、文字は音声を記号にして、視覚表現に変えただけなのだ。こんな時代になっても、文字表現は廃れるどころか、誰もが『エデン』を通じて文字でチャットのやりとりをしている。江戸時代から考えたら、信じられないほどの進歩だし、なんだかんだで、いまは「文字全盛」の時代だともいえる。
 響は、持って来たノートに、ペンで文字の連想を連ねていった。いま書かなければならない歌詞や、コラムのエッセイの下敷きにするつもりだ。なるべく抽象的なイメージをランダムに書き出し、それをだんだん具体的なイメージへと落とし込んで行くのが響のスタイルだった。
 言葉は自由だ。何より安い。音楽や映像と違って、元手も何もいらない。しかし時には鋭利な刃物となって、他人の心に突き刺さる。どんな抽象的な事柄でも言葉は表現できるし、具体的なものに変化しても、言葉は鎖のようにどこまでも連なっていく。色や、形や、匂いや、触感を変化させながら、ポジティブなものからネガティブなものへ、縦横無尽に言葉は続いていく。

(つづく)


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