短編小説 『黎明』 #09
1話
前話
車内には焼き鳥の匂いが充満していた。結局、スピカはトラックを降りることなく、当たり前のようにそのまま乗り込んできた。あまりにも驚いたので、指摘するタイミングを逃してしまった。
「ほら、半分あげるから」
運転している側から、口元に焼き鳥を持ってくる。いいですよ、と拒否しても、ほらそんなこと言わずに、とさらに勧めてきた。
「降りるんじゃなかったんですか」
「なんで? 降りるなんて一言も言ってないよ」
「だって、騒ぎを大きくしてもいいって……」
「騒ぎを大きくしたらお互い困るでしょ? だったら何事もなく、このままいくのがいいと思うけど」
押し問答していると、なんだかもうどうでもよくなってきた。どうせ見ず知らずの人を乗せているという事実は変わらないし、既に大勢に見られてしまっているのだ。いまさら降ろしたところでどうなるだろう。
何より、途中で何があろうとも、ドライブレコーダーの映像をチェックさえされなければ、このことがバレることはない。そもそも、トラックの窃盗未遂という大罪があるのだから、いざ警察を呼ばれるとダメージが大きいのはスピカのほうだろう。
それに、こうしていろいろなことをしているおかげで、眠気が飛ぶのもありがたかった。あのままだと、スピカとは関係なしに、事故を起こしていたかもしれない。
*
もう一度時計を見る。焼き鳥事件のおかげで、さらに五分ほど遅延していた。しかし、もうこうなったらどうにでもなればいい、と思った。
「トラックの免許はいつとったの?」スピカが聞いた。「こんな大型のトラックを運転できるなんて、すごいね」
「別に免許は取ってないですよ。普通にマニュアルで免許とったらついてきたんで」
「え、そうなんだ?」
「いまは違うらしいですけど。あと、このトラック、大型じゃなくて中型です」
「へえ」
「もちろん、ただ免許持ってるだけではいきなり運転できませんよ。訓練しないと」
「じゃあ、訓練したんだ」
「はい」
「あれだけのパンをいっぺんに運べるのもすごいね」
「慣れです」
「トラックに積み込んである分、全部配送したら終わり?」
僕は鼻で笑うように吐息を漏らした。
「いま載ってる分で半分ですよ。朝になったら、後半の半分を積んで、また同じコースを走るんです」
「これで半分?」
スピカは驚いた声をあげた。確かに、まだまだトラックの中には荷物が詰め込まれているので、相当残っている感じはするだろう。自分も最初に勤務したときに感じたことだ。やっとトラックの中が空になったと思ったら、まだ半分残っているのか、と。
もちろん、ひとつひとつの荷物を個別に配達しているわけではないが、三トントラックには手積みで三トンの荷物を積載している。それを自分の手で荷下ろしして納品するのだから、確かにすごい労力だった。
「なんでトラックの運転手になろうと思ったの?」
さらに深入りした質問をしてきた。こちらの態度が軟化していることを感じ取ったからだろうか。しかし、その質問は、僕の神経を逆撫でするものだった。
「トラックの運転手になろうなんて思ったことはないですよ」
「現にいま、トラックの運転してるじゃない」
「なろうと思ってなったわけじゃないです」
「どういうこと?」
「新卒で配属された部署がたまたまここだった、ってだけです。自分で望んだわけじゃない」
へえ、とスピカは声を漏らした。心底感心しているような声だった。
「じゃあ、もともとは営業とか経理とか、そういうスタッフとして入社したのか。でも、ドライバーもやるもんなんだねえ」
「普通はないと思いますよ。自分はなんというか、運が悪かったというか」
「そうかなあ」
「え?」
「営業も経理も、いつだってやろうと思えばできるじゃん。でも、いきなりトラックの運転手なんて、ある程度の年がいったらなかなかできないよ。だから、当たりみたいなもんだね」
「あなたに何がわかるんですか?」
「わかるよ」
「だから、何が」
「あたし、こういうトラックに乗ったことないから」
「ああそうですか。そりゃ幸せだったんでしょうね」
「仕事はしてたけど、お金を稼いでるって実感はなかったな」
「なんの仕事だったんですか?」
「別に、たいした仕事じゃない。でも、何で稼いでるのかわからないって、わりとしんどかったな。それは本当のお金じゃないような気がして」
「本当のお金ってなんですか?」
「わからないけど、本当に自分で稼いできたって実感のあるお金かな」
「どんな仕事で稼いだって、お金はお金じゃないですか」
「本当にそう思う?」
「思います」
「そう」
*
スピカの言うことはわかるようなわからないような、という感じだった。深夜にトラックの運転をしているだけあって、いまの自分の稼ぎは、周囲の同級生よりははるかにいい。
しかし、こんな将来性のない、ビジネススキルの身につかないような仕事をしていて、果たして未来はあるのか、というような気はする。
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