短編小説 『黎明』 #14
1話
前話
スピカが事務所の中に入っていくのを目撃しても、どうすることもできなかった。工場までの道は一方通行で、途中で引き返したり、止まったりすることもできない。
工場横に隣接されているトラックバースで、回収してきた番重を戻す必要があった。幸いにも順番待ちはなく、スムーズにつけることができた。
工場の中に入ると、積み込みのときに手伝ってくれた清水さんが番重を自動レーンに流しているところだった。
僕が急いでトラックのシャッターを上げると、「おっ」と言いながらこちらを見た。
「間に合ったか?」
声をかけてくるが、僕は短く返事をするだけだった。
*
急いでトラックを駐車場に駐め、事務所の中に駆け込む。
僕の形相に田中さんは驚いた表情になった。時刻は六時すぎで、そろそろ田中さんは帰宅の準備をする頃合いだった。
「どうした?」驚いた顔のまま、田中さんが声をかけてくる。普段、空番の回収が終わってからはトラックの中で休憩することが多く、事務所まで戻ってくることはない。
「あの……、誰か入ってこなかったですか、さっき」
「誰か?」
「そうです、部外者だと思うんですが。事務所に入っていくのが見えたので」
「え、そんな人が入ってくるはずないと思うんだけど」
田中さんは不思議そうにしている。明け方の時間はあまり動きがないとはいえ、いろんな人が出入りするので、それに紛れ込んだのだろうか。それにしても、なぜ?
田中さんにしたところで、席を外したりすることもあり、すべての人の出入りを監視しているわけではない。
「桜木さんなら、いま帰ってきたけど」
「桜木さん?」
「あれ、今日は一緒だったんじゃ? あっちの部屋にいらっしゃると思うけど」
桜木というのは初めて聞く名前だった。
「ありがとうございます」と短く礼を言った。
田中さんのいう「あっちの部屋」とは、中谷常務の執務室のことだろう。中谷常務に何か用事があるのだろうか。
*
「失礼します」
ノックをするのも忘れて、ドアを開け放った。ドアの正面に執務机があるが、いると思った中谷常務はそこにはいなかった。代わりに、スーツ姿の女性が座り、パソコンに向かっていた。
僕が入ってくるのを確認すると、パソコンを叩いている手を止め、顔を上げた。
スピカだった。
驚いて、声も出ない。
スピカと目が合ったのはほんの数秒だったと思うのだが、体感としては一分ぐらいの時間に感じられた。スピカも驚いた顔をしたが、少し口端を持ち上げて、にやりと笑った。
「なんだ、思ったよりも早かったな」
「え、どうして……」
「何を動揺している?」
スピカはノートパソコンを畳んだ。そして、机の上で手を組む。
「自己紹介が遅れたな。昨日付けでこの会社の取締役になった、桜木だ」
「は?」
なんの冗談かと思ったが、スピカは笑わない。何より、着ているスーツは皺ひとつなくピンとしていて、まるでずっとこの執務室にいたかのようだった。
「この営業所に新卒がドライバーとして働いていると聞いたのでな。どんな奴だろうと関心をもったわけだ。たまに抜き打ちの配送チェックを行なっていたらしいが、ここ数年は人手不足で実施されていなかったらしい。
ちょうどいいと思って、田中主任に頼んで社用車を出してもらい、私が抜き打ちのチェックを行った。その後配送に同行し、勤務態度のチェックも行った。いまそのレポートをまとめていたところだよ」
「まさか……だって、ただのジャージだったから……」
「会社の制服だったら目立つから、抜き打ちチェックの意味がないだろう? かといって、スーツで行くわけにもいかないしな。
案の定、チェックが行き届いていなかったからか、膨大な規則違反が見つかったよ。配送後に講習をするので、参加するように。レポートの提出も、だ」
「でも……」
「特に鍵の抜き忘れは重大な規則違反だ。トラックが盗難される恐れがあるので、本来は厳重処罰の対象となる。だが、キミも相当肝を冷やしただろうし、初回なので、特別に不問とする」とスピカは言った。「まあ、それはトラックの中でも言った通りだが」
そういえば、と思い出した。トラックの中で会ったときも、「鍵の抜き忘れを不問にする」と言っていたのだ。てっきり、あの時は、警察に通報しないことと交換条件だと思っていたのだが……。
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