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「エデンに堕つ」 早見響編 #098

 覆面パトカーの中に入ってしまうと、普通の乗用車の乗り心地とほとんど同じだった。自分のマンションを取り巻いていた人々が、窓ガラス越しに少しずつ遠ざかっていく。
 警察に抵抗するとか、質問するとか、そういう気力はなかった。右手が震えている。小刻みに振動しているそれは、しかし自分の意思で動かしているわけではない。自律神経がバグっているような感覚に近い。
 奈央とは別々のパトカーに乗せられた。行き先は同じだろうか、と考えた。なんとなくだが、別々の場所に連れていかれるような気がする。同じ場所なら、わざわざ車を分ける理由もないはずだ。
 響は車の後部座席に座っていて、運転している警察官が一人。そして、自分の隣にもう一人。この状況だけを見れば、撮影で移動しているような感じに見えなくもない。とても、非日常に連れていかれるような感じではなく、日常の延長線にあるような光景に思えた。
 手の震えは相変わらずおさまらないが、なんとか身をよじり、手をズボンのポケットに突っ込む。そして、指先でスマホをつまむと、ゆっくりと引っ張りだした。その様子を見てか、隣に座っている警察官が反応した。
「何してるの?」
 響は驚いて、警官を見上げる。ただ、スマホを取り出しただけだ。ほとんど無意識といってもいい行動で、何かを意図したわけではない。強いて言えば、明日以降のスケジュールについて、東堂に『エデン』経由で確認しようと思ったぐらい。
「誰かに連絡取ろうとしてる?」
「はい、会社の人に連絡しようと」
「何を連絡するの?」
「明日以降のスケジュールについて……。あの、これ、どれぐらいの時間がかかるんですか?」
「どうしてそんなことを知りたがるの?」
「どうしてって……。予定が立たないと困るからです」
「すぐに終わります。じっとしていてください」
 ぴしゃりと言われた。スマホをいじるなと言われたわけではないが、事実上、そう言われたに等しい。響だって、特に強い必要性があって東堂に連絡を取ろうとしたわけではなく、ただの日常的な、反射的な行動にすぎなかった。スマホをポケットに仕舞う。
 パトカーはすぐに警察署に着いた。車を降りて、警察署に入ると、そのまま取調室に通された。入室するとき、「規則なので」という前置きがあり、所持品を没収された。
 当たり前だが、簡素な部屋だった。何も置いていない部屋の、壁際に事務用の机があり、手前と、向かい側に椅子が置かれているだけ。もっと、応接室のような場所で話を聞かれるものだとばかり思っていたので、映画やドラマでしか見たことのない取り調べ室に通され、少し頭がクラクラした。
「というわけで、逮捕状が出ていますので」
 椅子に座らされたあと、部屋に入ってきた二人の警官のうちの一人が言った。淡々とした口調だった。見せられた紙を確認すると、表題の下に『早見響』という自分の名前があり、『九月十五日午後二時ごろ、北海道・ZEPP札幌の控え室で、アイドルグループ『おひるね宣言』メンバー・真子絵里と口論になった際、右手拳で顔面を強打し、全治二ヶ月の怪我をさせた疑い』といったような文面が続いているのが見えた。 

(つづく)


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