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現代人はシンギュラリティの夢を見るか?

以前、あるプログラマの人が、「すべてのコンピュータ・プログラムは、人間が頑張れば手動でできることを自動でできるようにしただけ」というようなことを言っていた。なるほど、と思ったり、本当にそうかな? と思ったりしたけれど、最近は「そうかな」と思うようになった。
 
そもそも「プログラム」とはそうしたものだ。プログラムのコードを上から順番に処理していく。分岐したり、ループしたり、飛んだりしながら、与えられた命令をこなしていく。確かに、現存するプログラムは、(膨大な手間がかかるということを考えなければ)人間が手動で操作しても処理は可能だ。
 
最近、チェスや将棋、囲碁のAIが人類の知能を超えたと話題になった。もちろん人類が完敗したわけではないものの、第一線のプロをしのぐような「棋力」をもったAIが登場しはじめた。それはプログラムのソフトウェアが発展したということもあるとは思うのだけれど、単純に、それだけ「計算」するソフトウェア的な効率と、処理する速度が向上しただけではないかな、と思っている。つまり、それは人間の暗算能力よりも、電卓のほうが優れている、ということを言っているにすぎないように思うのだ。

コンピュータは考えない。計算をしているだけで、思考はしていない。与えられた命令をこなしているだけ。自律的に考え、ときに人類を打ち負かしているように見えるのは、ランダムに計算した結果から良いものを選びだしているからで、計算の速度において人類を凌駕することもある。しかし、前述の通りそれはあくまで計算精度においてであって、「知性」ではないのではないかな、と思う。だって、コンピュータは、ランダムな情報をもとに「計算」しているだけなのだから。
 
クラゲには脳みそがないらしい。外界からの「刺激」に「反応」するだけで生きているから、未来予測はしない。犬や猫になると、多少は未来予測ができるようになる。それらの生物と比較すると、人類は未来予測を頻繁に行う。コンピュータも、やるようになってきている。やるようになってきたから、知性をもったかのようにみなされる。しかし、それは知性の本質だろうか?
 
チェスや将棋は、目的がはっきりしている。明確なルールがあり、勝利条件がある。一方で、現実社会には、明確なルールも勝利条件もない。いちおう、人類が「生存する」ことが勝利条件のような気もするが、まだ我々を「生存」を定義できていない。人類から脳だけを取り出して、一箇所に集めたほうが、より効率的に「生存」することになる、という価値観もあるかもしれないし、明確にそれを否定することもできない。

つまり、AIには、「何が良いか」を判断することはできない。それを決めるのは、人間だ。それを「考える」ことこそが、知性の本質のような気がする。問題解決は、ただの計算であり、シミュレーションだ。計算はAIのほうが速くて正確だから、人間の「知性」が、AIをどれだけ利用して求める結果を出していくか、そういうことになるだろう。
 
AIが主導権を握ることはない。もしそうなったら、本当に終わりがくるような気がする。真っ先に人類は排除されるだろう。人間ほど、非合理的な存在はないのだから……。(執筆時間15分50秒)

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