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メンタルは折らなければいい

けっこう小さい頃は泣き虫というか、友達と遊んでいても、けっきょく一人で泣いて帰る、ということが少なくなかった。たぶん理由はしょうもない理由がほとんどだと思うのだが、わりと傷つきやすい性格だという自覚はあった。中学生ぐらいのときは、こんなんで社会に出てやっていけるのか、と悩んだりしていた。
 
けれど、社会に出てみると、案外大丈夫だ、というのにちょっと驚いたし、みんな意外に脆いんだな、ということもわかった。いまだにメンタルを完全に折られたことはない。いや、メンタルを完全に折られるっていうのがどういう状況なのかよくわからんけど。周囲にはうつ病になる人もいるし、出社拒否してこなくなったりした人もいたから、そういう感じにはならなかった、ということだろうか。会社に絶対行きたくない、と感じたことも、そんなにはなかったと思う。就職したての頃はあったかもしれないけど。
 
人間なので、落ち込んだりへこんだりしてもいいんだけど、とりあえず「心を折らなければいい」んじゃないか、というのが最近到達した心境。つらいことがあったときに「傷つくな」というのは無理。しかし、物事を深刻に捉えて、完全に折ってしまうと修復が困難なので、ほどほどに、適当に受け流すのが必要なんだと思う。
 
僕の上司なんかは、何かをやらかしても、「どうせ命まで取られることはない」とよく自分に言い聞かせていたという。まあ、そりゃ普通の仕事では命までは取られないけど。そう思うと、何をやらかしてもそんなに落ち込まなくなるという。

僕は「どうせみんな死ぬから」とよく考える。僕は、自分も含めて、100年もしたらとりあえずいま生きている人が全員死ぬと思うと、なんだかほっとする。「どうせ服を着た猿なんだから」と思うのもいい。周囲が人類だと思うから大変なのであって、服を着た猿なんだと思えば悩みなんてどうでもよくなってくる。猿であれば、なんか嫉妬とか、責任とか、そういうのがどうでもよくなるような感じがするじゃないですか。猿が嫉妬したり他人を憎悪したりしていても、そんなに深刻なものではない。所詮僕らは猿なんだから。
 
要は、「深刻にとらえない」というのがうまく生きるコツなのかな、と思う。投げやりに生きるんじゃなくて、まあ、どうせみんな死ぬから、と気楽に思えば、くだらないしがらみなんて気にせずに生きられるような気がする。どうやって習得したのかはわからないが、この手の超楽観を手に入れたので、たいがいのことはうまくいっているような気がする。

逆に、強靭な心を手に入れて、何か大きなことを成し遂げても、そんなに威張れるようなことではない、とも思う。どうせみんな最後は死ぬからね。「教科書に載るような偉業を成し遂げたい」と言っている人がいたけど、教科書に載りたいか? と直感的に思った。教科書に落書きばかりしていたから、教科書に載りたいとはあまり思えなかったのである。

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