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「エデンに堕つ」 相田宗介編 #002

 気づけばもう上野に着いていたから、どうせ北千住には十五分ほどで着く。家まではそこから徒歩で十分ほどだから、三十分ぐらいで家には着くだろう。さて対応するべきか、と宗介は逡巡した。
 気が散るので、勤務中は常にiPhoneを機内モードにしている。こうしておくと、余計なノイズが入らないので、自分の仕事に集中できる。ただし、こうやって夜に電波を解放した瞬間、一日分の溜まったメッセージが、まるで締め付けた血管を解放したときの手のひらのように、一気に届く。それはノイズの洪水のようなもので、うっとうしい反面、ちょっとした快感でもあり、一日の自分の気持ちを切り替える、格好の瞬間でもあった。
 『エデン』は、いまや老若男女が使うSNS、いわゆるソーシャル・ネットワーク・サービスの、代表格のような存在だ。ちょっと前までは、Twitterや、LINEや、Facebookなど、色々なサービスがあったのだが、『エデン』が登場するとそれらはみんな淘汰されてしまった。
 『エデン』は、簡単に言うと、従来のSNSがやっていたことを、まるごとひとつにまとめてしまった。『エデン』が生み出した特別に画期的な機能など、ほとんどない。強いていうならば、成り立ちが少し違う。もともと、『エデン』は、プライベート用に誕生した他のサービスと違い、セキュリティを万全にしたビジネス用のメッセージ・ツールとして誕生したから、セキュリティに関する技術が他よりも優れていた、という特徴があったのだ。
 気がつけば、電車は南千住の駅を過ぎていて、電車も地上に出ていた。しばらく眼下の夜景を見下ろしていると、あっという間に北千住のホームに着く。ホームの人々はまばらで、宗介は疲れ切った人たちの脇をすり抜け、階段を降り、改札を出た。自宅のマンションまではほぼ一本道だ。
 飲み屋街を抜けて、自分のマンションのエントランスまで来た。優はまだ待っているだろうか。
 宗介のマンションにはエレベータなどという気の利いたものはない。コンクリートで出来た雑な階段を三階まで駆け上がると、人がふたりぐらい通るのがやっとな狭い廊下の先に、優は俯いて立っていた。黒色のフリースのフードを目深にかぶり、秋口なのにホットパンツを履いている。足元には、小ぶりな旅行用の、灰色のプラスチック製トランクが置かれている。
 優は宗介が来たことを確認すると、すぐに顔をあげた。そりゃそうだ。こんなに狭い廊下を駆け上がってくる音が聞こえれば、誰かが来たかはすぐにわかる。それにしても、こんなところで、一時間も自分を待っていたのだろうか。
「遅いよ。何してたんだよぉ」
 優は唇をとがらせる。宗介ははずむ息を落ち着かせながら言った。
「仕事に決まってんだろ。……そこで一時間も待ってたの?」
「そうだよ」
「どっか、座れるところで待ってればよかったのに」
「一時間半も返信しないやつがいっちょまえに気遣いをするというのか!」
「悪い」
「ばぁか」
「だから、ごめんて」
「足がくがくだよぉー」
「ちょっと、そこ、通してくれませんかね」
「え?」
「だから、ちょっとそこ、通して」
「どうして?」
「部屋に入れないから」
「やだよー」
「は?」
「ここを通りたければ、わしを倒してからにするんだな!」
 優は両手を広げて、狭い廊下で通せんぼをする。優の身長は、宗介とそう変わらない。履く靴によっては、宗介の身長よりも高いぐらいだ。はいはい、と軽くいなすように言い、通せんぼして廊下を封鎖している優の腕を下げた。
 フリースで腕が覆われているが、その上からでもわかるぐらい細い腕だった。自分と身長はほとんど同じだが、体重の差はひょっとすると十キロぐらいはあるかもしれない。宗介が財布から鍵を取り出すと、「いいの?」と優は言った。(つづく)


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