見出し画像

「エデンに堕つ」 相田宗介編 #008

 それに、今は、『エデン』がある。『エデン』は、それまであったあらゆるコミュニケーションツール、創作のためのプラットフォームを軒並み吸収合併し、ひとつに統合してしまった。
 そこで、人々はあることに気が付いた。
 作品とは、コミュニケーションである、と。
 そして、その逆もまた然り。
 コミュニケーションとは、作品である、と。
 今では、『エデン』を通じて、あらゆる作品を他人に見てもらう、ということがごく一般的になった。
 絵を描いて『エデン』にアップロードする人は星の数ほどいる。音楽もそうだ。漫画、詩や小説などのものをアップする人も、もちろんいる。それだけにとどまらず、最近では『エデン』にアップされている音楽や小説などを使って、実際にそれを実写やアニメCG化するアーティストも増えてきた。
 そういった創作作品は、『エデン』のコミュニケーション機能と密接に繋がっているから、創作をすればするほど、人々の話題にものぼるし、アーティスト自身がそのコミュニケーション自体に参加することもできる。
 そういった、「作り手」と「受け手」がシームレスな市場は、空前の盛り上がりを見せている。ただの視聴者だった人間が、ある日突然、話題の渦中にいることも普通のことになった。
 結局のところ、みんな退屈しているのだと思う。ゲーム会社や出版社が提供する「作品」を、ただ受け身になって消費することに飽きてしまい、自らが主体となって何かを創作するということに喜びを見出しはじめたのだろう。あるいは、これは人間に元々備わっている、生来の性質なのかもしれない。小さい子どもは何も教えられなくても絵を描いたり物語を作ったりするが、大人になると多くの人はそんなことから卒業してしまう。
 だが、『エデン』が登場したことで、その流れが変わった。発表の場ができたからだ。「どうせ誰も見やしないだろう」と思ってアップロードした作品が、有名なインフルエンサーの目に留まり、大ブレイクすることも最近では珍しくなくなった。むしろ、作品を生み出す当人よりも、星の数ほどある『エデン』にアップされている作品の中から、良いものを「選別」することができる人のほうが重宝されるような状況にすらなっている。
 『エデン』で作品を発表するアーティストは、所詮はアマチュアなので、ひとつの流行が生まれると画一的な作品が量産され、逆に多様性のない、通り一遍の作品が生まれる傾向がある。それを、強力なインフルエンサーがまだ世間に知られていない新しい才能を発掘し、世に知らしめるという流れができた。
 もっとも、有名なインフルエンサーに紹介されたからといってそれで人気が出るという保証はないし、そもそも星の数ほどある作品のうちから、インフルエンサーに引っかかること自体、奇跡的なことなのだが。
 『エデン』で有名になるのは、アーティストだけではない。自分たち自身の動画を撮って、テレビ番組のように番組を構成する者たちまで出てきた。いまでは、とっつきにくいアーティストよりも、タレント的に活動する人のほうが主流になりつつある。(つづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。