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存在の耐えられない重さ

GWぶりに実家に帰ったら、色々と変化があった。一番大きな変化は、祖母が一人暮らしをやめて両親と同居しはじめたことだ。もちろん、そうするという連絡は受けていて、知ってはいたのだけれど、実際に祖母の部屋が実家に誕生しているのを見ると、なんだか不思議だな、と。祖母は今年で93歳で、まだ歩けるし、頭もボケてはいないけれど、さすがに一人で暮らすのは限界ということで、同居することになったようだ。年齢のわりには元気なので、まだ介護という領域ではない。

祖母の家は実家から車で10分ほどのところにあり、父と現状を確認しに行った。電気と水道は止めてあるが、誰もいない家の中はひんやりとしていた。田舎の、それなりに大きな家で、10年前に亡くなった祖父の遺品が詰まっている家だ。
 
祖父は陶芸や絵画を趣味としていて、瀟洒で洋服もいろんなのを持っていたから、10年間手をつけられていないそれらの思い出がいまだに沈殿している。いまは誰も住まなくなってしまって、電気もつかないのだけれど、家具や日用品はそのままの状態で放置されている。
 
一応、名義上はまだ祖母なのだけれど、この家を譲り受けることになっていて、いずれは僕の名義になる。しかし僕は東京に住んでいるので、家などもらってもどうしようもない。いずれは処分することになるのだが、しかしそれにしても家の中にものが多い。ガラクタだけではなくて、人間国宝の人が作った陶器などもあるのだが、とにかくそういったものが色々詰まっている家なのだ。
 
ちょっと父と現状を点検して、写真を何枚か撮っただけで疲れてしまって、ソファに座ってしばらく雑談していた。古い家なので、秋口の残暑が残る季節でも風がよく通り、襖で仕切られている座敷の八畳と六畳間のあいだから覗く窓からは山が見える。どこか遠くでひぐらしが鳴いている。この風景は、子どもの頃にみた原風景そのもので、この家はもちろん、この家から見える風景そのものが、僕の記憶の奥底に深く刻みこまれている。

途方にくれていてもどうしようもないのだけれど、しかしこれ、どうするんだろうな、と茫漠とした感情に包まれていた。しかるべき時がきたら、すべてを処分して、取り壊すのだろう。金もずいぶんかかると思う。誰が出すのだろうか。名義上は僕のものになっているから、僕なのかな。そういうことを考えるだけで憂鬱だ。
 
しかしまあ、金だけの問題ではない。要するに、「思い出」が詰まっているのが大きい。存在が重すぎるのだ。自分の意思だけではいかんともしがたい存在が。
 
不謹慎かもしれないが、戦争や災害で綺麗さっぱりなくなってしまった街は、たしかに絶望かもしれないが、こういった存在を払拭してくれるものであるかもしれない。もちろんそんなことを望んではいないが。しかし重いのだ。如何ともしがたいほどに。(執筆時間12分59秒)

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