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連作の雨 : 2022

ツイッターのモーメントが機能を停止してしまったので、Noteをしてみむとてすなり・・・というかんじでこちらにまとめます。

八幡氷雨です。ひとつよしなに。
数学は苦手で、授業はすぐに寝てしまう。まあしょうがない。でもにぎやかなクラスで、割ときらいじゃなかったよ。起きろ。
勝手な決断をすることも、決断をせずに生きることもひとつの罪で。その罪を数え続けるために生きるひとの話。(仮面ライダーWの二次創作です)
人生は、すぐに忘れてしまうことのほうがほとんどだ。例えば炎色反応とか、きみと過ごした日々とか。何色だったかな。
久々に思い出すしあわせな記憶はどうにもまぶしくて、手を伸ばすことも目をそらすこともできない。わたしはそのつめたさと苦さを味わうほかなかった。
ついつい眠ってしまう車内は、すこし酸素が薄くて息ぐるしい。わたしはいつになっても、わたしの人生をうまく走れない。それでも、線路はつづくよどこまでも。そうかな。
クリスマス?よく分かりませんけど。楽しそうでなによりですね。これ、わたしからのプレゼントです。これが欲しかったんでしょう?残さず食えよ。中指を立ててもいいよ。
わずかな傷を多数抱えたあなたが乗る英国車は、あなたと違って傷ひとつありませんでしたね。どうしようもない雨のなか、車内でわたしたちがどう過ごしたか。あまりはっきりとは覚えておりません。
見て、聞いて、感じたものが、思考回路の渦を巻く。 春の出会いも夏の死も秋の憂鬱も冬の虚無も消えることはない。愛はやがてその渦のなかで輪郭を失い、ことばという残酷な刃物で内側から突き破られてしまう。 抜け出せないこの渦を、どうせなら遊んでしまえばいい。
酔っているときはもうなんでも許せる気もする。自分のことを誠実だと思っているきみも、それに溺れてしまうわたしも。 ずっと覚えているのかは知らないけれど。
『空はすっかり夜の昏さをしていた。心臓と喉の奥が少しばかりきつく締め付けられるような心地であった。私はそれを愛車の車体の捩れのせいにも、路面の凹凸のせいにも、はたまたエンジンの鼓動のせいにもすることができなかった。』
おなじにんげんなんていなくて、それは恋に落ちた相手もそうで。おたがいに補色みたいな関係のわたしたちは、揃うことないまま終わってしまったね。
この世界では定型にとどまらない関係のほうがほとんどで、ふたたび雨のことなどを考えてしまう。答えを出せるわけもないけれど。
どんなにんげんでも、食べずには生きていけない。まあ別においしく食べなくても、生きていく資格がないわけではない。それなりの生活。
忘れてしまうものと覚えてしまうことがあり、それを頼りにふたたび戻ってきてしまう街がある。なにを探しているわけでもないはずなのに。
同じことばでも、感情や性格によってイメージが変わってゆく。物語を紡ぐとき、その世界はどのような原子で創られてゆくのだろうか。そしてその世界をどのように旅することができるだろうか。
人はみな役者だと思う。感情とは別の振る舞いをしたり、ときには自分と違う人格を生み出してみたり。そして死に損なったきみは、とびきり演技が上手だった。
わずかのあいだ待つときは、ついついちいさな癖が出てしまう。それだけ手持ち無沙汰なのかもしれない。  ほんとうに?
液体の水が存在できる領域のことをハビタブルゾーンと呼ぶらしい。にんげんにも、そして記憶にも距離があって、ほどよい距離のまま居られたらよかったのにね。
戻れないとは死ぬことだが、進むことは生きることだ。過去を積み重ねた街に墓参りのように戻ってきてしまうとき、わたしは死んでいるのだろうか、生きているのだろうか。
退廃的な生活をつづけて、もう花の名前もまともに覚えていない。わたしはわたしが掴みたいものを掴んでゆけるだろうか。花の名前を思い出せるだろうか。
雨の日の、それも夜の運転はまぶしくてしょうがない。いつになっても振り切ることができない空気抵抗を、連れてゆくしかできないのだろう。忘れることのできない過去のように。
つかれてなにもしないまま眠ってしまうと、なおのこと疲れてしまう。過去の痛みが歪められてしまう夢を見てしまう。もういいよ。
ありふれたわたしがありふれた過去を思うとき、ちょっとだけ丁寧に咀嚼してあげようと思う。つまらない言葉だったかもしれないね。いいけどさ。
漠然と夜空を見上げた日は数知れない。なにもない日も、死のうとした日も、恋をした日も、夜空はそこにあった。でもそうじゃなくて、星を見るために夜を過ごす。そういう日の記憶があっても、悪くない。
いったん傘を手放してしまえば、あとはもう雨を全身で受け止めるほかなかった。水の滴りと後悔を抱えたまま、大いなる眠りにつくのだろうと思う。
それなりに大人になって、もう空のいろなんて気にすることもなくなってしまった気がする。最後に青空を見た日。それからしばらく列車には乗っていない。
生活に疲れて涙を流すことすらできないとき、空っぽの鞄を携えて出かけた。旅というにはあまりにも寂しいけれど、それでも旅だったのだと思う。
奇妙な関係というものは往々にしてあるもので、その関係性に名前という輪郭を与えようとすると蜃気楼のように消えてしまう。その日以来、わたしはその蜃気楼を忘れられないでいる。
てきとうに作ってもそれなりにおいしいし、たぶんわたしは天才だと思う。それなりにおいしく生きていて、でもいつもなにか足りない気もしてしまう。
適量を知らないまま、わたしたちは愛におぼれてゆく。もしくはそれを知っていても、満ち足りることのない心がそうさせてしまう。すこし疲れた。
取り留めのない人生とその記憶。それはもう遠い記憶で、はっきりとは覚えていないかもしれないけれど。それでもなぜか忘れられないでいる。
もやのかかった記憶を振り返ってみれば、自分の足りないものばかりに目が行ってしまう。わたしはまだ、なにも成し遂げていない。
星のない夜は鬱々としてさびしい。やがて来る雨からは逃げられないと知っていて、歌いながら待った。声が枯れるまで。
記憶の中の愛情はとても輝いていて、どうしても手放せない。とうに期限が切れてしまっていると分かっていても。
過去の風景で聞こえていた音はどんなかたちだったのだろうか。今となってはもう知る由もなくて、あいまいな旋律を奏でる日々をくりかえしている。 
なにかを生み出すとき、にんげんはすこしだけ工場になる。今日を明日に進めていくために愛や夢を創り出す、そんな工場もあるかもしれない。
どんなに飽きてしまっても生活は続いていく。すこしずつ重ねていって、そうしてそれなりに積みあがったものはどんな味なのだろう。
きみからの手紙はいつになっても過ぎてくれない青い季節を抱えていて、どうしようもなかった。わたしはもう青空につかれてしまって、それでも青いまま生きていた。
誰かの一番になりたがったり、とくべつになりたかったりすることに時々虚しさを感じてしまう。そういうとき、とくべつに少しだけ大きく息を吸って、吐く。生きるためのことばと一緒に。
遠い記憶のなかにゆらゆらと思い出される些細な会話。それは大きな波が来るまでに掬ったちいさな、でも最後まで手から零れ落ちなかったほうの砂たちだった。
自分の罪も他人のきらめきも、数え上げるにはきりがないし。だめなときは立ち向かわないで、逃げてもいいよ。
思い出したくても思い出せない記憶があって、忘れたくても忘れられない記憶がある。そして、ふとした瞬間に思い出してしまうこと。蝶が留まっていたその曼殊沙華とか。
スポーツカーに浪漫。そしておそらく、その車内で起きたこともぜんぶひっくるめて浪漫だった。どうやって距離を重ねてゆくかはわからないけれど。
あやふやな記憶は無意識のうちにそれらしく形を変えてしまう。どうあがいても戻ることはできなくて、あとはもう捨て去るしかなかった。あるいはさびしく抱いて。
偶然生まれた惑星に偶然生まれたいのちが、偶然の恋などをして生きている。なにもかも偶然でできている世界で、それでも必然を見出したくなってしまう。
いつもと変わらない日常を、ときどき無性に脱ぎ捨ててみたくなってしまう。できることはたかが知れているかもしれないけれど、それでもいつもより大きく息を吸って、吐いた。
いつかだれかの灯りになれるでしょうか。人のやさしさを無意識のうちに求めてしまって、灯りを消すのも忘れて眠ってしまった。いいよ。
悲しみも寂しさも嘘も後悔も、わたしという身体の水分としてたしかにそこに存在した。拭いきれるかは分からないけれど。
無数の星が生まれては消えてゆくように、生まれては消えてゆくことばがある。わたしたちはことばに傷つき、ことばに癒されて生きている。宇宙が、ことばが、わたしがすこしでも永遠でいられるように。
水面は空の青さを欲ばっていて、空を泳いでいることを知らない鯉がいた。わたしは青い季節のなかにいて、それをすこしずつ水へ溶かして生きていた。似ているのかもしれない。
眠りに入るときのわずかのあいだ、どうしても無防備になってしまう。からっぽの心と体にながれ込む波の塩分と、少しばかりのレモンは間違いなくわたしの一部だった。
宇宙はどんどん膨張して、いつか永遠になにもない空間になってしまうらしい。ひかりも雨も記憶も、なかったことにはならないけれど。良くも悪くも。
生きることに正解なんてなくて、それどころか間違えてばっかりで。どんな選択をした日にも、名前の知らない風が吹いていた。
抱えすぎて詰め込みすぎて、その時にも今にも見えないものがたぶんあって。そんなの信じてはいないけれど。それでも未遂に終わってしまったんだし、いいと思うよ。
海にまた雨が降るように、愛という欲望は満ち足りるということを知らない。いつか来る終わりに目を背けても傷ついても抜け出せない。抜け出さなくていいや、とも思ってしまう。
二度と戻れない場所があり、過去がある。それらを思い出すたび、どうしようもない後悔が空虚な胸に響き渡る。それでも、それを抱いて生きていく責任がある。残念ながら。
あいまいな世界をことばで切り分けて、自分がたしかにそこにいて生きていたのだという証を求めて生き急いでしまう。ゆっくりで、あいまいなままでもいいよ。
知りもしないで語らないで。知らない世界のほうが、知ってる世界より広いのに。たとえばほら、なんとか文明。ヒポポタマス文明とか。
数えきれない記憶があって、そこにはわたしが捨てた水分もわたしが受け入れた水分も、ぜんぶ含まれていた。
どっちがいいとか悪いとか、そういう二項対立じゃなくて。たぶん互いに素直なだけで、やがてすれ違ったまま終わった。
過ちも嘘も、記憶や人生をすべて捨て去れば許されたことになるでしょうか。その答えを誰も教えてはくれません。猫ならあるいは。
《こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。》
やがて終わってしまうものばかりで、わたしたちは殻に閉じこもるようにしりとりをした。
永遠に忘れないというとき、その記憶のうちのどれだけが永遠として残るのだろうか。海に行けなくて、ごめん。
鴨は相変わらず水面のさざめきと戯れていて、にんげんはその清濁をことばのせいにしてしまった。かわいいね。
突き刺さりそうなほど鮮やかな生き方もあって、でももやのかかったような生き方もあって。好きになりきれなくても、愛着はもってやりたいな、などと。
なにかを失いながら生きてゆくことは、洗練されてゆくということとは限らない。うしなったものを抱えてこの星に生きている。
もう戻らない嘘があり、抜け出せない夜のもやがある。少しだけ混ぜたほんとうもすべて嘘に変えて、ひとはさびしく生きている。
世界をおおきく切り分けてしまうと、見えないものが生まれる。残念ながら。
慣れてしまった道も、一度としておなじ貌を見せてくれない。わたくしがどのように終わっても。
手が届く夢もあれば、手が届かないあこがれもある。浪漫はどこだ。
前世のことを思い出す。自分の生きたいように生きられたかは分からないし、嘘ばかりなのは自分でもわかってるけれど、それでも誠実に生きたいと思う。
記憶のなかの街はおそらく今と違うかたちだし、二度と戻ることもないし、そういう生き方しかできなくてさみしい。
尋常じゃないペースでことばを編んでいて、何を生き急いでいるんでしょうね、わたしは。パソコンがお友達です。
つらつらと呼吸を繰り返している。過去を切り分けてしまって、わたしはどこまでわたしでいられるだろう。
これからもなにとぞ。八幡氷雨でした。

長いですね。疲れました。ここまでたどり着いたあなたは八幡氷雨のファンです。勝手に認定します。おめでとう。
ここにあるのは、わたしが八幡氷雨として生きてしまった証です。これからもしばらくは八幡氷雨だと思います。これからもよろしくお願いします。

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