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210422【変化球を駆使して】

高校2年生の秋、疲労骨折により4週間ほど実戦から離れていた自分は、この秋最後の県外遠征、群馬遠征で復帰することが決まっていた。土曜日は、前橋の高校にて試合を行なった。ありがたいことに、遠征一試合目の先発にて登板させていただいた。

故障したことで何か能力が下がる、ということはなく、むしろ肩、肘を休める良い機会になったようで、なんだろ、自分はすっかり野球の素人なんだけど、右肩、肘の可動域が広がったように感じた。そして、故障時に仰向けの体制で空を見ながらボールを放っていたあの練習により、特にシュートボールの握りが冴え、この試合は5回2失点で、まあ、試合は作れたと感じた。とりあえず、復帰できて良かった、明日も楽しみだ、という感じでその日は終わった。

日曜日は、高崎の高校だった。学校隣接のグランドに着いたが、とても設備が整っていた。

この遠征の前、自分がまだ全体メニューに復帰できず、仰向けでのメニュー時に監督から言われた。

「お前、スローカーブは投げないのか。」

「投げてないですね。」

「お前の持ち球からして、スローカーブ、入れてみると、幅、広がるんじゃないか。」

「はぁ。」

当時、自分のストレートは130キロなんて出ず、120キロちょっとが平均。そこに、110キロのスライダー、120キロ出ないくらいでシュート回転をかけたボール、100キロくらいのチェンジアップに、同じくらいのスピードで縦に割れるカーブを持っていた。そのカーブをもっと遅くして、80キロ90キロくらいにしたらどうだ。と。まあ、生き残るには、それしかないよな。130キロを平然と超えるストレートが投げられるエースとは違うのだから、生きる道でやっていかないと。

そんな会話の中で、監督が言った。

「“スローカーブを、もう一球”って読んだことあるか。」

「ないです。」

「今度、読んでみな。」

「はい、分かりました。」

あまり監督と話す際は、感情が入ったスタンスで話さない。自己も自我も強くないんだよね、それは今もそう、社会人になって、「こういう仕事がしたい。」って想いはあるけど、どうしても上司、決裁者の前だと萎縮する。それは、今からじゃ変えられないな。ただ、高校時代野球をやっていて、ピッチャーをやっているときだけは、エゴも強いし、相手バッターに向かっていくの。たまに気迫も出していたし。「だったら、仕事も野球のピッチングと同じようにやればいいじゃん。」って言われたりするが、野球は野球、仕事は仕事よ。ウマくいかないことの方が多い、人生は。そう思っている。

さて、その「スローカーブを、もう一球」というノンフィクション作品を、自分はこの群馬遠征後に書店が買うことになったのだが、その舞台となった高校にて、日曜日、試合をした。

後に「スローカーブを、もう一球」という作品を読んだのだが、どうしても自分と重なる点があって、監督はそんなパーソナルなところも引き出すために、勧めてくれたのかと回想する。たまたま、次の遠征先がその高校だった、ルーツを探ると出てきたのが「スローカーブを、もう一球」だったのかもしれないが。無名の公立高校の一ピッチャーが、スローカーブを駆使して、センバツ甲子園大会まで進む快進撃の様子が描かれていて、マウンドにいるピッチャーの心境等、何か、シンパシーを感じたものがあった。主人公ピッチャーの体型が173cm67kgであること。ほぼ、一致している、自分と。また、ピッチングは“駆け引き”であることを、野球の指導書ではないのに、うんうんと頷きながら読んでいた。この文を書きながら、久しぶりにこの文庫本を読みたくなった。表題作「スローカーブを、もう一球」を含む8篇のスポーツ・ルポルタージュになっていて、表題作ももちろんステキだが、「江夏の21球」も面白かった。これは今になってYouTubeでその時の動画が落ちているから、今までに何度も観ている。これはお酒も進む動画だ。

さて、舞台を10月の下旬、日曜日、高崎の高校に整備されたグランドに戻す。この日は、ホスト校と、自校、そして、もう一校、隣の市から来た商業高校が集った。この商業高校も強く、甲子園に何度も出場している。後々調べてみると、その年の夏にも甲子園に出場していた。おいおい、そんな高校相手に試合をさせていただけるなんて、恐縮だわ。

1試合目はホスト校と、ゲストの商業高校が試合をした。その様子をライトフェンス奥のサッカー部の練習場で見ていた。2試合目はホスト校である、スローカーブ先輩の高校対自校だった。この試合は、もう自分とエースは投げる予定はなく、スローカーブよりゆっくりなアップで午前中を過ごしていた。1試合目が終わると、自分たちは一塁側ベンチに入り、試合に備えた。相手校は、群馬県で一番偏差値が高い高校と情報が入り、ウチの偏差値の倍だな、と口を開けてしまった。そんなことはない、一応、自校も偏差値は50を越え、一応、“進学校”と名乗っている。その頭が良い高校との試合を、自分は覚えていない。とりあえず、試合が始まって早々に「次、頭、お前ね、2点取られたら、交代ね。」と宣告され、「ウソでしょー、プレッシャーじゃん。」と頭の中で呟きながら、試合を見ていた。相手、甲子園出場の強豪校よ、絶対通用しないじゃん。2点取られたら交代よ、3回まで持つかも分からないわ。自分は、基本「よっしゃ、やったるわ。」みたいな精神がないのよ。常に心配と一緒に生きている。絶対的なボール、剛速球がないからだ。いやぁ、キツイなぁと思いながらも、「まあ、練習試合だし。」という楽観もある。悪魔と天使じゃないけど、心配と楽観が、30を過ぎた今でも付き纏う。あっという間に目の前の試合は終わり、自校2試合目、甲子園出場校との練習試合が始まった。

自校は後攻で、両校がホームベースを挟んで整列し、礼をした後、ダッシュまでいかなくとも、脱力しながらマウンドに上がる。ネタバレじゃないけど、この試合は、高校野球の中でもよく覚えている試合だった。1球1球、相手バッター一人一人を覚えているわけじゃないけど、要所要所、覚えているなぁ。

1回表、相手校先頭バッターは左バッターで、追い込んだ後に投げたチェンジアップの抜け方が自分の中でとても良い感じだった。そのボールで空振り三振を取り、そこからのらりくらりと躱しながらアウトを積み重ねる試合が進んだ。左バッターには外に逃げながら落ちるチェンジアップ、右バッターにはインコースに食い込むシュート、この2種のボールをウイニングショットとして、配球を組み立てていた。ただし、カウントを整えるために投じるストレートとスライダーは、流石甲子園出場校、対応してくるの。まあ、威力のないストレートだし、曲がりが鋭くないスライダーだからアジャストしてくるよね。どうしても力ないカウント球を捉えられ、2回以降は毎回ピンチを背負うことになった。2失点したら交代。このことだけが頭に過る中、何回だろう、3回表は、0アウト1、3塁のピンチを背負った。ここで相手右バッターの打球はピッチャーゴロで自分が打球を捕った瞬間、3塁ランナーが飛び出していて、挟殺プレーになり、3塁ランナーがアウト、挟殺した瞬間、塁間にいた1塁ランナーも挟殺となり、一気に2つのアウトが取れてピンチを逃れた。次の回も、先頭バッターにツーベースを打たれ、次のバッターは進塁打を許さず抑えた。1アウト2塁で迎えた左バッターには外角のストレートでレフトフライに打ち取ったと思ったが、レフトに守っていた、今や自分のクライアント、広告代理店勤務の同期に落球され、1アウト2、3塁とピンチが広まった。ここで、左バッターが2人続いたのだが、インコースへのスライダー、ストレート、ドロっとしたカーブでなんとかカウントを整え、最後はボールゾーンへ逃げていくチェンジアップで2者連続三振を奪った。試合後、バックネットにてスコアラーをしていた後輩に聞くと、決め球に投げていたチェンジアップの平均球速は98キロだったらしい。試合中、マウンドにいながら、相手校ベンチの様子が分かるのだが、どうも、相手校監督がイライラしているのが分かった。「なんで打てないんだ、引きつけて、待っていれば打てるだろ。」的な怒鳴り声の指導がマウンドにも聞こえてきた。この試合、右バッターにもチェンジアップは投げていたが、専ら三振を取った球は左バッターへのチェンジアップだった。相手校先発メンバー中、6人が左バッターであることもあり、他県の初見ピッチャーの独特なチェンジアップに戸惑っていたようだ。そこに、チェンジアップより遅いスローカーブで目線を変え、ストレートとスライダーでカウントを整える。右バッターにはシュートボールで内野ゴロ狙い、自分の思い通りのピッチングができた。
その魔法みたいな世界でゼロ行進が続いたが、6回、ゲッツー崩れで1失点したところで、自分はお役御免、エースに交代となった。最初は3回しか投げられない、相手打線に捕まって早々に交代を想像していた身としては、6回も投げさせてくれて、良い試合となった。

その試合は、2番手に投げたエースピッチャーは速球派だったのだが、自分の技巧派よりタイミングを合わせやすいのか、バカスカ打たれていたのも、気持ちが良かった。うーん、これは自分の人間の悪さが出ているが、ピッチングはスピードがすべてじゃない、というアピールにも繋がった。結果、試合には負けたが、何か良い気分で試合後のダウンをして、荷物を揃えて、帰路のバス乗り込もうとしたとき、声がかかった。その声に、また自分は少し気分が良くなった。

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