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211230【お笑いは観て笑うに限る】

御存知の通り、先日「M-1グランプリ2021」が開催され、今年の漫才師日本一が決まった。その日、昼下がりからテレビで敗者復活戦を観て、夜は決勝戦、酒も飲まず、ずうっと笑いながら楽しんでいた。中学生の時、初めて「M-1グランプリ」が開催され、第一回大会から欠かさず観ている。リアルタイムで観れなかった時は、録画をして、しっかり観ている。観てから寝ないと、あくる月曜日、クラスの話題に着いていけなくなる、そんな恐怖心は無いのだけれど。

大人になり、「M-1」に関わらず、お笑いのネタの見方が変わってきて、自分自身で気持ちが悪い。別にお笑い評論家じゃないのに。ネタを観ながら、「うわー、いいシチュエーションだなぁ。」や、「日常の切り取り方が抜群だ。」なんて思うの。またネタの構成や伏線回収なるものに期待して、口には出さずとも「次、こういう展開になりそうだな。」って考えてしまう。感情が揺さぶられる=笑いが起きる、というのは基本「ギャップ」によるものと考えていて、自分が「ああなるんじゃないかな。」と思ったとおりにネタが進むと、笑わなくなる。ただし、自分はすぐ笑ってしまうゲラ中のゲラであり、笑ってストレス発散ができる稀有な存在である。やっぱり「笑い」って良いのよ。大晦日は歌合戦より笑い派だし。年越して、深夜もお笑い、仮眠を取って元旦は朝からお笑いよ。日々、テレビをつけて、チャンネルを合わせるのは、「いかに笑えるか」が基準だったりする。笑うことって、健康にも良いって聞くし、確か。

子どものとき、アニメ、ヒーロー戦隊より専らバラエティ番組を観ていた人間だ。スーパーファミコン、ゲームボーイ等にも興味はなく、娯楽の中心はテレビだった。そこで得た言葉、ギャグ、エピソードトークを学校で披露する、ひと笑い取る、というのが王道のパターンだった。バラエティの話に関しては先頭を切れるのに、アニメや漫画・週刊誌、RPGゲームの攻略方法のジャンルに移ると、自分は一言も喋らなくなる。ドラゴンボール、ワンピースにスラムダンク等、まったく通ってこなかったに等しいのだ。大人になって、飲み会の席で子どものときに流行ったものの話題に華が咲くが、どうもそのラインのアニメの話になると、困るのだ。「明石家マンション物語」や「わらいのじかん」で話を盛り上げたいのだ。“ンパンパンパンパンパンパンパンパ”と、リズムを取りながら、あるあるネタでトークしたいのだ。

アニメの知識に関しては、もちろん女性陣よりも疎いときもある。せっかくの飲み会のトークテーマがそうなると、一人ビールを飲むだけになり、食い散らかされたシーザーサラダやから揚げの残りが自分の所にやって来る。自分が幹事の時は、なるべく自分が苦手なジャンルに話題がならないよう、女性陣に話題のお題だしを振って、回すようにしていたと思う。なんのテクニックでもないけど。

また、アニメ・スラムダンクをほぼ見てない、ストーリーや登場人物の名言なんてまったく分からないのに、高校野球3年生の時、自分がバッターボックスに入ると流れる応援歌は、主題歌であった大黒摩季の「あなただけ見つめてる」だった。野球の舞台で、なぜバスケの曲なのか、何故スラムダンクを通っていない自分への応援歌がこれなのかツッコミどころ満載なのだが、せっかく作って採用してくれた応援歌なのだから、皆の期待を込めてバットを振っていた、と勝手に思っている。高校野球の話に振り切ってしまって申し訳ないが、同期で一番早くベンチ入りをしていた自分は、確実に調子に乗っていて、1年の秋に自分の応援歌や、応援パネルに文句をつけてしまい、ベンチ入りできなかったチームメイトからスゴい目で見られ、険悪なムードにさせてしまったことも思い出す。まあ、そのあと鼻をへし折られて、下り坂の人生だから、許してほしい。なむ。

さて、子どもの頃からバラエティが大好きな自分に話を戻す。テレビでいろんなお笑いに触れてきた身ではあるが、自分でゼロからお笑いを作ったことなんてほぼ無い。今日、オフィスや商談でブレイクするためにボソッと放つ言い回しは、自分が生み出したものではなく、テレビのパクリだ。ほぼね。企画書も、プレゼンも、自分オリジナルなんて無い。ほぼね。上司のパクリ、どこどこの代理店が使っていた資料のパクリ、それでここまで来てしまった。まあ、これからもパクっていこうと思う。

クラスメイトを笑わすことに快感を覚えた自分は、小学校のクラスにて、お楽しみ会なる時間があり、皆でフルーツバスケット等のゲームをする中、教室の前に立ち、クラスメイト相手にお笑いネタをやったことがあった。確か小学校5年生の時だったと思う。自分なりにノートに台本は書いてはみるが、大きなお笑い、オチの部分はテレビからの引用だった。その時のネタを覚えていないが、ショートコントなるネタだったのを覚えている。ショートコントなら、一つのネタが直ぐに完結するから覚えやすいと思っていたんだと思う。学習帳をネタ帳として書いて、ちぎって一緒にやってくれたクラスメイトに台本を共有したのを覚えている。

その次に、しっかりネタを書いたのは、高校になってからだと思う。まずは、野球部での懇親会で一個上の先輩と。田舎の宴会場のステージに立ち、漫才をした。当時、ブラックマヨネーズがM-1で優勝していた時だったから、あのトーンのクロストークで台本を起こすんだけど、どうも本家は超えられないし、笑いも生み出せないの。「プロってすげえや。」と思っていたかもしれない。そのプロはお笑いのプロで、150キロを投げるプロ野球選手ではない。たしかにスゴいが、高校野球生活の後半、「プロになる、甲子園に行く。」なんて目標は無く、「怪我なく、楽しくやって、それなりの思い出ができれば良いんじゃないの。」という精神で過ごしていた。今となっては、ネタになる話もあって、自分尺度では十分である。

さて、高校時代にプロのお笑い、テレビを賑わすお笑い芸人の力を知り、その力を借りて挑んだ、高校3年生の文化祭。ヤンキー生徒たちによるバンド演奏の転換時間を漫才、お笑いで繋ぐのだ。その際に5本ほど、ネタを書いたが、先にも書いたブラマヨの漫才のようなネタはあまりウケず、ベタなシチュエーション・漫才コントのネタの方がウケたのが、自分にとっては腑に落ちないところだった。その時、一緒に漫才をやってくれた相方なる中学高校の同期であり、同じ野球部の戦友だった奴がいた。彼は、浪人して大学進学、自分の一年後に東京の大学に進学してきた。その際に、声をかけられたことを思い出す。

「一緒に、お笑い、やってみないか。」

冒険心ある彼らしい発言だった。ただ、お笑いのクリエイトの部分で旗を振り、ネタのペンを書き進めるのは自分だろうなと思った。養成所に入り、事務所に所属してデビューする。売れるのは、ほんの一握り中の一握り。考えたつもりだけど、考えなくても答えは出た。自分は、まあ、クラスのちょっと面白いこと言うヤツの一人に過ぎない、お笑いでメシを食うなんてできない。として、お断りをした。

その時、「よし、いっちょやってみっか。」と彼と握手をして、そのままお笑いの道に行っていたら、どうなっていたんだろう。今とはまったく異なる世界に居たんだろうなと思うが、自分にはどうも無理っぽい。テレビを観て、笑ってるくらいで丁度良いや。

自分のことをプロのお笑いの道に誘ってくれた彼は、社会人になって複数社のサラリーマンを経験した後、会社を立ち上げ、本を書き上げ、出版している。そして、お笑い芸人とも共演していた。

その彼について、いつか、詳しく書きたいと思うが、野球部の同期の中での一番の出世じゃないかと思う。自分は、テレビで観るお笑いに、ずうっと笑っていれば良いや。と改めて思うのだ。

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