見出し画像

なにか、質問はありますか?

トークイベントや講演に行ったとき、「なにか質問ありますか?」と最後に聞かれて、沈黙してしまうことが多々ある。講演の内容を覚えるのに頭がいっぱいで、質問など思いつきもしない。
その講演の内容が自分の日々の仕事や生活と関係していれば、講演のあとにその内容を思い出して実行に移すこともある。そしてそのときになってはじめて、あの聞いた話の、その具体的な中身については全然わからない自分、に気づく。具体的な実態を知らずに、「ふむふむ」などとうなづいて、ノートにせこせことメモを取っていた自分。
「質問がありますか?」と聞かれても「いや別に」としらけた顔を見せていた私。
具体的な内容にまで想像を巡らせることは、抽象的な話と、目の前にある具体的な出来事を結びつける経験を何度も繰り返した末にできるようになる。

講演に限らず、誰かの「ありがたい話」は抽象的になっている可能性が高い。もし具体的に思えるとしたら、それはその話し手の経験が語られているからだ。だけど話し手の具体的な経験と、聞いている私のこれから来るであろう具体的な経験は違う。そこまで想像できてはじめて、「これは具体的にはどうなってますか?」「こんな問題が想定できますがどうですか?」などの質問が出てくる。

質問は難しい。抽象的な内容の場合は特に。抽象的な話というのは、ロジックが見えなくなりやすく、また、ごまかしやすいものだから、うっかり聞いていると「なるほど〜」と思ってしまう。論理の穴や、補足が必要な箇所も見落としやすい。


自分ひとりが「ざっくりとした論理」に「なるほど〜」と納得するだけなら
かわいげがあるが、同じ国に住む1億人が「ざっくりとした論理」に「なるほど〜!質問はありません」とうなづいている状況を想像すると、それはかなりキテレツな状況だなと思う。だがキテレツな状況でも、1億人が幸せならそれで良いのかも、とも言えるかもしれない。


だから、ここからは唐突に飛躍するけど、「幸せ」は侮りがたい。「個人の幸せ」を皆が追求すると、社会全体としてはキテレツに見えることがあり、それでいいのだ、と言えるならそれでいいのだが、ぼくはあまり納得できず、キテレツな社会は勘弁してくれ、と思う側にいる。


コメント、スキ、サポートなんでも嬉しいです。 反応があると励みになります。