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努力と才能


才能ある人


ある著名人がむかし、「才能ある人からやめていく」というようなことを言っていた。お笑い芸人でも役者でも、なりはじめた頃は儲からないから、才能があってもやめてしまう人が多い。それで残るのは才能がない人だけになり、いま華々しく活躍している人は、才能がなくても地道に努力した人たちだということになる。

その人は軽い気持ちで言っていただけかもしれないが、ぼくはこれを読んでいたときに、ある道に進むか否かを迷っていたときだからとても影響を受けた。この言葉は、やめる自分に対する免罪符のようになって、「俺は才能があるからやめるのだ」と、納得させることができた。
しかしあとから振り返ると、これは単に「がんばれない」ことの言い換えでしかなかった。

努力する才能

単なる「才能」とは別に、「努力する才能」という言葉もある。「キミは野球の才能はないが、努力する才能がある。それも立派な才能なんだ。自信持て!」みたいな言い方をする。
しかしこれを横で聞いている、努力が嫌いな人間は、「そうか、オレには努力する才能がないのだ」と悟り、野球をやめ、そして何もかも適当にやるようになる。努力の才能がないからだ。「努力するのも才能」と口にした瞬間、人々は「がんばれない自分」をそのまま肯定してしまう。「自分ががんばれないのは才能のせいであり、それならもはや受け入れるしか道はないではないか?」と。

努力する環境

かつて若者だったぼくも、ぼくちゃんも、中年に差し掛かっている(というか中年だ)。かつての自分の怠け癖を後悔し、未来の自分にも期待できない。なんとなく絶望する中、「習慣」にあらためて注目する機会があった。行動デザインの専門家が掲げた読むべき本リストに入っていた『Atomic Habit』という本を読んだだけなのだが、そこに習慣は環境から来るものだと書かれていた。「ギターをうまく弾けるようになりたければ、ギターを部屋の真ん中に置けば良い」などというようなことが書かれている。

人間は習慣によって、考える量を減らしているので、習慣をデザインできれば努力も習慣に組み込むことができる。「努力する才能」のような、あるのかないのかわからないものにすがるより、「努力しやすい環境」をつくることのほうが、はるかに有意義である。
朝起きてSNSをチェックする習慣を身につけるか、朝起きてまずギターを抱えて弾き始める習慣を身につけるかで、その人の今後は大きく変わる。


才能とは。

才能とか、能力という言葉に違和感がある。いまは遺伝の研究も進んで、ほとんどの能力は遺伝で決まるという話も聞く。しかし、世の中が「能力」をどう定義するかのほうが大事だとぼくは思っている。いま能力という言葉を使う人は、ほとんどが「学力」の言い換えになっている。この話はまだ全然まとまっていないので、今日はこの辺で。

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