主張する権利の放棄
「ドヤ顔」という言葉が嫌いだ。なにかを堂々と主張した人に対して、「ドヤ顔で〜」と揶揄する。あるいは、自分が力強く主張したとき、振り返って「ドヤ顔で言ってしまいました」と照れたり謙遜したりする。どちらもよろしくない。それは「ドヤ顔」ではなく、主張する人の普通の顔のである。
ドヤ顔を気にする社会では、自分の主張を伝えるとき、論理の明快さや説得力より先に謙遜を気にするようになる。自分ごときがこんな主張をするのはおこがましいのではないか?と、主張を引き下げるようになる。よろしくない。
意見があるなら言えばいい。言ったあとに間違ってたら訂正や調整していけばいい。「ドヤ顔」と揶揄・謙遜する社会では、論理的な説明ができる人が育ちにくい。議論ができる人が育ちにくい。環境保護を訴える若者を揶揄する意見を見るときなどに、そう感じる。環境保護に反対なら反対の意見を言えばいい。
もしかして、若いときにはドヤ顔を気にして、年をとったり権力を握ったときに、ドヤ顔するつもりなのだろうか?
そんなヤツがトップの会社になんか入りたくないし、そんなヤツがトップの国に住みたくはない。それとも、ずっと主張を控えて生きる?
意見があるときにそれを主張する。主張する限りは伝わるように論理をたてる。それを繰り返していった先に、議論ができる土壌がつくられる。
ドヤ顔、という言葉を若い人から聞くたびに、この国は大丈夫かな?と思ってしまう。自分たちが主張しなければ、「ドヤ顔」で語るヤツの主張ばかりが通る。
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