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Xというアプリ

Xというアプリを削除した話


X(以下、Twitter)というアプリをスマホから削除した。代わりにInstagramを見る時間が少し増えたが、こちらはほとんど文章を読ませない設計になっていて、投稿と投稿が連動しないせいか、時間を忘れて見続けてしまうことがない。
Twitterはその点、それぞれのツイートの関連を深堀していくと時間が無限に吸い取られる。そのなかで自分と相入れない意見を見つけたり、その都度なにかが挫かれた気分になったり、どうしたらこういう意見に反論できるかを考えてしまったりしていた。

Twitterを削除した当初はわりと寂しかった。ツイートできそうな思いつきがあっても、スマホからツイートできないと、スマホのメモ帳に記載するだけになる。メモ帳に書くだけで誰からの反応がないのは寂しいが、そもそもツイートしてもなにも反応がなかったのだから同じことである。

しかしこれでいよいよ世間から断絶されたという気持ちにもなる。だれかと会っていても、それは個人であり、世間とはちがう。100人と会っても世間ではない。Twitterという大海に浮かぶ無数の言葉から、ぼくは世間を感じていたのだ。

ツイッターは島のひとつ

ただ、冷静に考えれば、Twitterは大海というよりも孤島に近いようにも感じる。海外に旅行に行ったときなどにも同じように思うことだが、日本のTwitterを見ても、「なぜこれで揉めているのか?」ということがたくさんあるのだ。日本にいるときは自分もその揉めごとに関心を持っていたのに、海外にちょっと行くだけで意識が離れてしまうのだから勝手だ。

それなりのユーザーがいても、Twitterは世の中にたくさんある島々の中のひとつの島でしかない。noteも島、Instagramも島、FacebookもYouTubeも島だ。島で何かが盛り上がっていても、別の島に行けば関心が薄れるのは当然のことだ。

BBCのニュースアプリを開くと、そこにはニジェールでクーデターがあったとか、サウジアラビアの国境警備隊がイエメンからのエチオピア人移民数百人を射殺していたとかのニュースが報じられている。しかしこの手のニュースを、日本のTwitterで見かけることはない。本当に島がちがうからだ。島が変われば主な関心事も異なる。

なぜツイッターを見る時間を減らしたいのか

ただ単にぼくは、Twitterという島で繰り広げられている事柄に、これ以上自分の時間を吸い取られることに危機感を覚えるようになっただけだ。ついに。遅すぎたような気もする。1500円の本を買ったのに、それを読まずに無料のTwitterを開き、どこの誰とも知らない他人の思いつきを読んでいる…。いやそれが面白いのは確かだろう。しかし1500円出したそのときの気持ちはどこに行ったのか。買ったときの自分の気持ちを無視し続けてきたことに、最近ようやく気づいたということだ。

Twitterアプリを一個消したことは大したことではない。パソコンから見てるし、投稿もする。しかしあるひとつの島へのアクセスがちょっと不便になり、意識が別の島(たとえば自分が1500円出して買った本)に向かっていることは感じる。



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