ろくろを回す~崇高消費編~

今回はこれについて。
(゚、゚トソン 崇高なる消費のようです

推し活ブームが薄気味悪い

オタク諸兄姉に助走つけてぶん殴られそうな出だしになったが、あくまで私個人の所感なので許してほしい。
私は昨今の推し活ブームに懐疑的だ。正直そんな手放しで褒め称える文化ではないと思うし、もっと言うとメディアや企業のような生産元が推し!推し活!と囃し立てるのは、金曜ロードショーがオタクのノリに合わせてバルスとか言い出したあれと同じ類の寒さを感じる。「何が悪いの?私はバルス楽しかったけど?」と思う人は恐らくこの記事自体が肌に合わないので、読まないことをおすすめする。

「推しは人生を豊かにしてくれる」という主張は理解できる。私にも推しという存在はいるし、公式からの供給(オタク用語で推しの新規情報を指す)がもたらされた時は病院に連れて行かれそうなレベルの異常行動を起こした。異常行動=人生が豊かなのかはさておき、爆発的な喜怒哀楽をもたらしてくれるという点ではその通りだと思う。
その上で、もしもこの風潮が定着したらどうなるか考えた。今よりもさらに加速して、老若男女問わず推しを持つことが当然の世界になったら。
きっとあちこちで推し〇〇とこじつけた商品が売られるのだろう。店に入れば誰もが推しのぬいぐるみやアクスタを掲げて写真を撮る。ファッション誌では「この時期におすすめの推し活ファッション!」といった特集が組まれている。そんな環境の中、推しができない人は思い悩み、推しを斡旋してくれるサービスを利用するかもしれない。
多分そこそこに気持ち悪い世界だ。だけどテーマとしては面白そうだし、書いてみようと思い至った。『崇高なる消費』が生まれたのはそんな経緯からだった。

前置きが長くなっちゃったけど

作品の舞台は「今よりも少し進んだ未来」という設定で、この時代では「推し活は人間として自然な行動」として認知されている。「恋人いる?結婚してる?」といった質問は前時代的だと忌避され「推しはいる?」と聞くのが主流となっている。
もちろん推しを作ることが強制されるわけではないが「そんなのいらない!」と強く拒否したら「あの人ちょっと変わってるよね」と陰口を叩かれる世界だ。その辺は現実とあまり変わらない。
まあ実際、大多数の人間がそれを当たり前としている中で「私にはそういうものは必要ありません!あなたたちはそれがすべてですよね!でも私はそうではありません!あなた達と私は違うんです!」と殊更に主張する人間がいたとして、そいつは十中八九面倒臭い人間だと思う。良いとか悪いとかじゃなくて面倒臭い。少なくとも私なら深く関わらない。世間話として話題を振っただけであんたの信条なんて別にどうでもいいよ、と思う。
作中のツンもそういう風に扱われている。別に悪人ではないけど、できれば関わりたくない人。クラスメイトがツンを遠巻きに見る中、自己主張が苦手な主人公トソンだけは、自分の意志を貫くツンに憧れを抱く。

ツンは別に強い人間というわけでもない。年相応に自己愛が強く、みんなが普通に所持している「推し」がいないことにコンプレックスを抱き、そんなものはくだらなくて周りは踊らされてる馬鹿ばかりで自分のような人間こそ賢い人間だ!と思い込むことで自尊心を保っているような、どこにでもいる普通の子供だ。
そんなツンを間近で見てトソンは沼に沈んでいくのだけど、この時点でトソンはツンという存在を人間扱いしていない。

ツンが祈るように手を差し伸べてくる。その手を、包み込むように握った。
 初めて触れるツンの手は柔らかかった。
 手の甲はすべすべで上質な革を思わせた。同じ女だから私も似たようなものを持っているのに、自分のそれを撫でるのとは全く違う。
 心臓がぐんとせり上がる。ツンの声が遠ざかっていく。
 (中略)
 ツンの両手が私の掌に収まった。隠すものがなくなったツンの顔から、とめどなく涙が零れていく。
 宝石のようなその一粒一粒を目に焼き付けながら、私はいつまでもツンの手を握っていた。

このくだり、ツンの言動の描写はあるものの、ツンの喋る内容や涙の意味には言及がない。
推しを目の前にしたオタクなんて無力なもので、目の前にある肉の塊をつぶさに観察して目に焼き付けるのが精一杯だからだ。悲しいことに、ガチ勢ほどその内情を慮る余裕は持てない。
「トソンも私と同じだよね?」というツンの切実な祈りすら、トソンの耳には多分届いていなかったと思う。

物語終盤、トソンはツンを推しだと公言する。この世界において推しを作るのはとても良いことなので、それを聞いていたクラスメイトは「感動的だ」と涙ながらに拍手を送る。泣き崩れるツンの姿は誰の目にも入らない。
何故ならこの世界において大切なのは『推しを作ること』だから。「尊い」「推せる」と同じ言葉で喋って一体感を持つことが大切だから。「推しができた、推しに人生を救われた」という事実さえあれば細かいことはどうでもいいのだ。
マジョリティとして光の当たる場所を勝ち取ったトソンと、消費され続けることを余儀なくされたツンという対比で物語は幕を閉じる。

おわりに

神格化されたものは奴隷と似ている。
家族のために自己犠牲を強いられる母親を「母は強し」とクソデカ主語で称えるのと同じように、「推しは素晴らしい、私達の人生を豊かにしてくれる」と称えられる時、そこにいる推しは人間扱いされない。
「推しが尊い」というオタクの定型文がある。この「尊い」も、少なくとも『崇高消費』の世界においては意味が異なる。
「尊い」のは推しを崇拝したり消費する行為を指し、推しそのものが尊いわけではない。そんなニュアンスを込めてタイトルをつけた。

再三言うが、これは私個人の意見なので「そんな奴はオタクじゃない、推しを尊重できてこそ本物のオタクだ」と思う人がいるのなら、それはそれでいいと思う。多分それは正しいし、大多数のオタクはそう振る舞える人だ。
ただ私は「自分は正しくオタクをしている」と信じている人間がふとしたきっかけで厄介になってしまう事案もそこそこ見てきたので、正常と異常を分けるラインなんて曖昧なものだと思っている。自分も含めいつどっちに転ぶかわからない世の中だと思い、自戒も込めてこの作品を書いた。
私は決して良いオタクとは言えないし、そもそも推し活を消費行為とか言ってる時点でオタクとしての才能はない。だけどせめて法に触れない範囲で楽しく消費していきたい。オタクを辞められるものなら辞めたいけど、どうにも魂のシミになってて無理そうなので……

ちなみに以前これと同じ世界観の『推しがいる生活』という短編も書いた。
リンク先は現在入荷待ちとなっているが、今年の文学フリマ福岡で再販&後日通販も行う予定なので、手に取ってもらえたらとっても嬉しい。よろしくお願いします。


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