はじめての政治哲学 「正しさ」をめぐる23の問い 第1章 4 コミュニタリアニズム

なぜ中絶はいけないのか?

この問題の是非は、共同体の価値観や道徳によって大きく左右されるといえるのではないか?
そう考えるとリベラリズムのように道徳的議論を避けて通ることはできないように
思われる。
ここにコミュニタリアニズムが台頭してきた理由がある。

リベラル・コミュニタリアン論争

アメリカでは、ずっと個人主義が中心であった。
そんな中、現代リベラリズムが登場し、その風潮を緩和する動きが出てきた。

ところが問題は、ロールズの思想でさえも、やはりリベラリズムであることに変わりはなく、価値の中立性に固執していた点である。
1980年代になってそこを衝いたのが、コミュニタリアンだった。

コミュニタリアンによるリベラルへの批判は次の二点に集約される。

  • リベラリズムのいう「自己」の概念が、歴史や伝統、そして共同体といった文脈から切り離された原子論的なものであるという点

  • 「正の善に対する優先性」のもとに、道徳や善に関する議論を放棄している点

コミュニタリアニズムの中身は論者によって相当異なってくる。
まずはサンデルの思想から見ていこう。

サンデルの登場

もともとサンデルは、ロールズの『正義論』を批判することで注目された。

「負荷なき自己」

リベラリズムにおいても善は尊重されているのだが、それは善の価値そのものではなく、何の制約もなく自由に善を取捨選択している主体が尊重されている。→負荷なき自己

「位置づけられた自己」

私たちは、決してこのように特定の環境から完全に独立して存在しているわけではない。
むしろ私たちは、自分の属する共同体に関係づけられた存在である。→位置づけられた自己

民主制の不満

サンデルによると、アメリカ建国以来の政治社会の歴史は、リベラリズムと市民的共和主義という二つの公共哲学の間の抗争の歴史であったといえる。
しかもリベラリズムによって、共和主義がどんどん侵食されてきたのである。
それに伴って、政府への不信は増大し、政治的経済的な統制力が喪失し、共同体は衰退していった。→民主制の不満

マッキンタイア、テイラー、ウォルツァー

マッキンタイア

リベラル・コミュニタリアン論争を担った他のコミュニタリアンについても見ていこう。
マッキンタイアは『美徳なき時代』(1981)の中で、現代社会における道徳的不一致と共同体の徳の衰退を危惧している。

その道徳的不一致をもたらしているのが、リベラリズムによる「情緒主義」にほかならない。
つまり道徳的判断については、合理的に決着をつけることなどできないというわけである。

マッキンタイアは自己に関する統一的な物語を形成する主体、「物語を語る動物」になることではじめて、人は道徳的判断力を再構築していくことができるようになるという。

テイラー

他方、テイラーは、『哲学論文集』(1985)の中で「自己解釈的存在」という概念を掲げる。

人は、他者との会話や社会の実践の根底にある共通理解によって、自らの経験を自己解釈的に再定義していくものである。
ところがテイラーは、近代における個人主義が、そのような自己を不安にさらしているという。

だからこそ社会の意義を重視する。

ウォルツァー

これに対してウォルツァーは、『正義の領分』(1983)の中で、「複合的平等」という概念を掲げ、リベラリズムのいう平等概念や分配的正義の一元性を批判している。

正義にもとる分配としては、「優越」が挙げられる。
そこでウォルツァーは次のような原理を提示する。

社会的財xの分配にはそれ独自の原理があるのであって、財yの分配に左右されてはならないということである。
このようにして社会的財の自律的で多元的な分配を行い、複合的平等を実現しようとするのがウォルツァーの議論である。

多様化する論争と実践的な社会運動への展開

コミュニタリアニズムは、その後、議論を多様化させていく。
それらに共通するのは、やはり何らかの意味で共同体の価値を前提にしているという点である。

コミュニタリアニズムが対抗しなければならないのは、リベラリズムだけではない。次に述べるリバタリアニズムも強力なライバルといえる。

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