はじめての政治哲学 「正しさ」をめぐる23の問い 第1章 1 功利主義

いじめとイケニエ

「功利主義」とは、人間が快楽と苦痛によって支配されていることを前提として、行為の判断基準を幸福の増減に求める思想に他ならない。

実際の政治の場面では、ほとんどの場合、こうした功利主義的な判断をもとに選択している。
でも、果たしてそれは本当に正しい選択といえるのだろうか?

ベンサムとミル

功利主義の誕生については、自然権の話から始める必要がある。

「自然権」

「自然権」とは、人間が生まれながらに持っている生命、自由、財産に対する権利のことである。

ジェレミー・ベンサム

功利主義の生みの親ジェレミー・ベンサム(1748〜1832)。彼は、自然権などといった虚構ではなく、むしろ経験的原理に基づいた政治を求めた。

ベンサムの提唱する理論が、「功利性の原理(the principle of utility)」だったのである。この原理では、快楽と苦痛を基準にせよというわけである。

社会の幸福とは、一人ひとりの幸福を足し合わせたものだという理屈から、ベンサムはこの功利性の原理を社会に適用できるという。

そこで掲げられたのが、有名な「最大多数の最大幸福」というスローガンだった。

ベンサムの制度改革の中で、有名なのは「パノプティコン」と呼ばれる刑務所のアイデアであろう。これは中央から効率的に受刑者を監視することができる。

ベンサムはあらゆる快楽を平等に扱うことで、全ての人間の平等性を確保しようとした。

ところが、裏を返すと、それは人間の個性を奪ってしまうことに他ならない。
こうしてベンサムの立場は、高貴な快楽も下賤な快楽も区別しない豚向きの学説などと揶揄されることになる。

J・S・ミル

そんな中、ベンサムの理論を批判的に継承したのが、イギリスの政治経済学者J・S・ミル(1806〜73)である。
ミルは功利主義の立場に与しつつも、ベンサムとは異なり、快楽の量だけでなく質も重視した。

この考えに基づくと、人間の個性に配慮しつつ、功利主義のメリットを生かすことができる。

いずれにせよ、功利主義というのは、本当に中立性を維持しながら、徹頭徹尾科学的にものごとを判断し続けられるものなのだろうか?

どれだけ納得できるかが問題

1人のイケニエとそれ以外の99人の例。

「危害原理」

ミルは、人は他人に危害を与えない限り自由であるという。

ただ、このように人間の個性に配慮し始めると、他方でどうやって幸福を測るのかという疑問が湧いてくる。

生き延びる功利主義

この問題については、現代社会においていくつかの議論が生じている。

J・C・ハーサニー

経済学者のJ・C・ハーサニー(1920〜2000)は、自らが選択する社会において、自分自身がどのような地位に陥るかはわからないという仮定のもとにあるとした場合、人はどのような決定をするだろうかと考える。

着目すべきは、その際必然的に自分を他者に置き換えるプロセスが生じる点である。

R・E・グッディン

R・E・グッディン(1950〜)は公共政策の規範理論として功利主義を用いる。
つまり、直接的な行為によって効用をもたらすのではなく、社会制度によって間接的に効用をもたらすという方法をとるのである。

有限な社会の憂鬱

いくら功利主義だといわれても、イケニエの存在を受け入れるのは憂鬱。

根強く残る部落差別や外国人差別、増加する低賃金労働者、これらはある意味で現代社会のイケニエなのではないか。
こうした問題をなくすにはどうしたらいいだろうか。

功利主義に対する批判の急先鋒は近代ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724〜1804)によるものである。


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