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7月の振り返り日記

体調と調子

 1週目。今までの気分の辛さから反転して調子がよくなりました。

 しかし、心だけが元気になって体は追いついていないという感じです。

 慢性的に残る疲労感はなくなりましたが、変わらず疲れやすくて、少し動いては休むを繰り返すもどかしい日々でした。

 訪問看護師さんとデイケアの職員さんに、貧血の話をしたら、私は低血圧だとわかりました。

 それから夏バテ対策もかねて、積極的におみそ汁を飲むよう意識しています。

 高血圧には減塩がいいとよく聞くので、低血圧には塩分が良さそうだと思ったんです。

 あと、低血圧にいいと言われる海藻や野菜、夏バテにいいといわれる豚肉など、どんな具材との相性がよいのも好都合でした。

 2週目。デイケアに行ったら想定を大きく越えて疲れました。

 慢性的な疲労感に半日以上の睡眠。ちょっと食事するだけで疲れて寝床へ逆戻りです。

 こんな状態になっては家事もままならず、貧血対策のための増血薬などもサボりがちになりました。

 少し良くなると今度は自律神経の乱れが目立って、食欲不振、昼夜逆転、だるさなどの症状が出ました。

 3週目。1週間以上経って、やっとのことで不調が落ち着いてきました。

 少しずつ生活時間を戻し、食事量を増やして、できる活動の範囲を広げていきます。

 …… そのはずだったんですけど、ちょっとお買い物に出たらぶり返してしまいました。

 4週目。3歩進んで2歩下がる、を繰り返していました。

 外出して疲れて、家事して疲れて。疲労感で何もできない日の間隔が短くなっていきました。

 しかしながら低血圧は改善されません。

 高血圧は減塩なのに、なぜ低血圧では変わらないのでしょうか。

 停滞していた日常が、少しずつ回り始めて回復を実感しています。

 7月は始めが一番調子良くて、いろんなことができるはずとワクワクしていたんですけど、フタを開けたらこんな感じでした。

 2週目のやっちまった感がすごいです。

 回復に専念して、気づいたら8月になっていました。

サプリメントとプロテイン

 私は、藤川徳美の著書を参考にサプリメントとプロテインをとっています。

 アドオンセット(ビタミンA 、ビタミンD 、セレン)までとりたいと思いつつ、貧血がなかなか改善しないためATP セット(鉄、ビタミンB 、ビタミンC 、ビタミンE )からなかなか進まない状況です。

 もどかしいなと思いつつ、今まで不健康を極めていたのでじっくりゆっくり取り組んでいます。

 7月は、ビタミンE を再開して、ビタミンC と一緒に鉄を取るようになりました。

 体調の回復を強く感じた7月始め、ビタミンC を減らしてみたら疲労感がどっと戻ってきました。

 2週目の不調は、ビタミンC を減らしたことが主な要因ではないかと考えています。たぶん。

 定期的に繰り返す作業が地味に苦手なんですが、体調が良くなってサボったら大事故になった気分です。

 反省して、1時間にセットしたキッチンタイマーを携帯することにしました。

 タイマーがなったらビタミンC をとります。

 少しずつ体調が改善していったので、ビタミンC は偉大なヤツだったんだと実感しました。

 途中からは、鉄も一緒にとることにしました。

 理由はなんとなく、です。

 貧血が改善してきたので、お休みしていたビタミンE を今月からとり始めました。

 ビタミンE と鉄は、一緒にとれないので8時間おく必要があります。

 何でも鉄が吸収されにくくなるため、時間をおかなければいけないそうで。

 鉄って、ただでさえ吸収されにくいんです。

 ビタミンE を取るとさらに吸収されにくくなるなんて不安じゃないですか。

 その不安な気持ちだけでも改善できないかと思って、ビタミンC と一緒に鉄も増やすことにしました。

 効果があるのかはわかりません。

 ただ、最近はエアコンによる冷えが改善されてきました。

 ビタミンE か、鉄か。理由はわかりませんが、そのおかげだと考えています。

日光浴

 樺沢紫苑のブレインメンタル強化大全を読んでから、正確には著者のYouTube動画を見るようになってからですね。

 太陽の光に当たることを意識しています。

 沖縄にいたとき一度、著者の推奨する起床
1時間以内の朝散歩まで漕ぎ着けました。

 ちなみに、できるようになるまで1年以上かかりました。

 しかし、大阪に移住して振り出しに戻ります。

 理由は新しい環境に体調が不安定になったこと、また、それにともなって習慣作りが困難になってしまったことだと考えています。

 部屋には遮光カーテンをつけていないので、日の光に当たりますが、現在まで外に出るまでには至りません。

 私は片付けと整理整頓が苦手ですが、引っ越しの荷物を出していく中で、ベランダの前を持ち物で埋めてしまいました。

 それゆえに一番簡単な、ベランダで日光浴もできませんでした。

 その荷物たちを夏前にどうにかできたので、体調不良が良くなってきた7月、久しぶりのベランダ日光浴に挑戦しました。

 結果は惨敗です。効果が強すぎました。

 たとえるなら、カフェインで眠気や疲労を誤魔化したときの感じに近いでしょうか。

 朝の1時間2時間、気力に満ち溢れた後、異常に疲れるようになりました。

 不調に落ち込んだときほど効果の分、後から大きな反動もあってコントロールが難しかったです。

 著者に出会ったころは、体調をある程度安定させることができた後だったので、そんなことがあるなんて思いもしませんでした。

 習慣作りのためにその後が長かったんですけど、ベランダへは割とすぐに出られるようになった覚えがあります。

 環境を整えて、後は過去を辿るように動けば、ささっとできるようになるのではないか、と考えていました。

 経験上、底上げは少しずつしたほうがいいと思うことも多いです。

 いきなり上を目指すと、いろんな不都合に集中砲火されます。

 タイミングが悪かったのか、見誤ってしまったのか、今回は一気に底を上げすぎてしまったのかもしれません。

 今はこれまで通り、窓の側で室内から日光浴しています。

その他

 疲労感満載だった今月、ほとんど横になって過ごしていた気がします。

 おかげでネット小説を読むのが随分はかどりました。

 疲れているから頭を使う読書とか遊びは、ほとんどできなかったです。

 疲労感で体を起こすのも辛いけど、寝過ぎてただ横になっているのも手持ち無沙汰で、結局スマホをのぞきこんでばかりいました。

 動けたら動けたで、溜まった家事を消化したり、空っぽの冷蔵庫を埋めるためにお買い物したりと忙しくしていました。

 忙しいと台風のように時間が過ぎていきますが、逆に何もしないと記憶に残らないという意味で時間が早く感じてしまいます。

性差とトイレ

 先月はLGBTQ+ のニュースが目立っていたような気がします。

 あまりニュースを見ないので、たまたまそう感じただけな気もしなくはないですが。

 個人的に、トイレ問題は多目的トイレに統一して、ユニバーサルにしちゃえばいいんじゃないかと思います。

 安易的すぎるでしょうか?

 私は性差の問題の多くが、性をどう区別するのか、というすれ違いから起こっているように見えるんですよね。

 いわゆるマイノリティな方は、だいたいが体より心の性別を優先しています。

 でも、心というのは形がないから見えないわけで、多くの人はわかりやすい体の性別を優先してしまいがちです。

 体と心の性別が一致しているからこそ、でもあるかもしれません。

 一方で、トイレはとてもデリケートな場所です。

 男女の二者択一では、どうしても無理矢理になってしまいます。

 だったら、私は男女なんて区別しないで、みんなで多目的トイレを利用するのがいいんじゃないかと思ったんですよね。

 小さなお店や施設では、トイレの個室が一つだけというところも見かけます。そんな感じです。

 ただし、これをベストアンサーだと考えているかといえば否定してしまいます。

 トイレは本当にデリケートな場所なので。

 そもそも私は、男女も、障害者も、健常者も、老人も、親子も利用できるユニバーサルな多目的トイレ贔屓です。

 唯一、惜しむらくは小さな子どもに大きくて使いにくいところでしょうか。

 子ども用サイズのトイレは、女子トイレでしか見たことがないです。

マジョリティも多様性

 今回はもう一つ。

 LGBTQ+ などの話題になると、必ず大多数のマジョリティと少数のマイノリティという問題が出てきます。

 最近はマイノリティを受け入れようと、SDGs やダイバーシティ、多様性などという言葉も広まっていますが個人的には疑問なんですよね。

 マイノリティが、わかりやすくて注目されやすいというのは理解できます。

 でも、マイノリティを受け入れればいいだけの問題なのでしょうか。

 発達障害を診断されたり、精神科に通ったりしている私は、どちらかといえばマイノリティ側です。

 たまにマイノリティを個性として特別視する方もいますが、個人的にはモヤモヤしちゃうんですよね。

 だって人間は機械じゃありません。

 マジョリティだからといって、個々の意思や価値観がないわけではないでしょう。

 区別は大事ですが、中には大枠でとらえて、個人を無視しているように見えることがあります。

 先日、SNS で「最近は自分で考えられない人が増えた」という投稿を見かけました。

 内容をよく見てみると、ちょっとした気遣いができない人がいるというものでした。

 投稿者さんとっては、その「気遣い」が当たり前のことなのでしょう。

 私も「気遣い」の内容に関しては共感しました。

 一方で、今は「ありのままの私」を大切にする時代だとも思っているんですよ。

 ひと昔前は、テレビなどのマスコミから同じ価値観を共有していました。

 第二次世界大戦で日本も戦争に巻き込まれ、国のために、みんなで頑張るという時代です。

 戦争が終わっても元通りとはいかずに、生きていくためにはやっぱり頑張り続けなければいけませんでした。

 みんなで頑張るためには、同じ価値観を共有することが有効です。

 昭和は、それが必要な時代だったともいえます。

 書類にたとえると、わかりやすいかもしれません。

 フォーマットの決まっている書類と、それぞれが好き勝手に作った書類、どちらがわかりやすいでしょうか。

 価値観を共有するというのは、書類のフォーマットを統一することに似ています。

 でも、国が復興して、バブルが弾けて、平和になった今、みんな同じではいられなくなりました。

 その特性上、一方的な価値観を押し付けるテレビなどのマスコミは、ときにマスゴミとこき下ろされるようになりました。

 平成、令和を経て、少しずつ自分自身の価値観を大事にするほうへ時代は流れています。

 だからこそのSDGs であり、ダイバーシティであり、多様性ではないでしょうか。

 当然、自分自身の価値観を大切にするなら、他者の価値観もないがしろにはできません。

 話は戻って、なぜ投稿者さんが自分で考えられる人が少なくなったと思ったのか、ということですが。

 自分で考えられる人が少なくなったというより、考える方向性が人それぞれ違うようになったのだと私は思います。

 価値観を共有すると、みんなで同じことを考えるようになります。

 でも、それぞれの価値観で生きるようになると、みんなで同じことを考えることはできません。

 同じ「気遣い」という言葉でも、ある人にとってはかまうことかもしれませんし、違う人にはそっとしておくことかもしれません。

 抱きしめてもらうことかもしれないし、笑い飛ばしたり、慰めたり、避けたりすることかもしれません。

 私は「気遣い」が苦手です。

 人から気遣われると、私も気遣いしなければいけないという強迫観念にも似た義務を感じてしまうからです。

 自然に気遣う分には問題ありませんが、「気遣いしなければ」は、めちゃくちゃ疲れます。

 気になる人には気になる、でも、気にならない人もいれば、逆に気にすることそのものがダメな人もいる。

 そんな世の中で、自分と同じ人を探すのならともかく、自分と同じことを要求した投稿内容に私はモヤモヤしました。

 だからといって「みんなで同じ」を大切にする人に、人それぞれだよと要求するのも、やっぱり違うと思うんですけど。

 自分と違うこと、理解できないことを受け入れるのは、マジョリティもマイノリティも関係なく難しいです。

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