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さよなら炒飯!七皿目

二年の夏は梅雨の最中にあっけなく終わった。
三年生がいなくなり、並木がキャプテンになった。秋の公式戦、成果が出た。強豪と当たった二試合、1―0と2―1で競り勝った。いずれも相手の失策で塁に出たランナーを強行と犠牲フライ、スクイズなどで取った一点。それを守り切った。
春の選抜の対象にはならなかったが、バントを採用しない戦術を含めて県立高校の躍進は少しだけ話題になった。バントはあまり得点に結びつかないというデータを見つけたからだ。
しかし嶋津が余計な不安材料を作っていた。審判のジャッジに対し軽く疑問を投げた。キャッチャーマスクを取って「今のがボールですか?」としつこく二回言った。それだけ。しかしそれが噂として広がった。話が盛られたり大きくなることなく「正確」に伝わった。

「今のがボールですかとマスクを外して審判に二回言った」

県の高野連、審判部にも伝わったらしい。
高校野球において審判は絶対だ。審判に抗議はできない。できるのはルールの「確認」だけ。ストライクやセーフなどの「判定」の確認はできない。
そして審判が高齢化している。判定がぶれるのはしょうがない。しかしこの嶋津の行動は何かしらのトラブルを生む気がする。僕の中に黒い染みの様なものを作った。



夏の大会。負ければそれで終わり 。僕らは最小の得点で勝ち進んだ。SNSと噂話を活用した僕らのデータも精度を増した。対戦相手の弱点も「ようこちゃんアカウント」に寄せられる。
僕自身、コントロールに磨きがかかり球速もわずかながら増した。打撃も並木がデータを基に細かい指示をすることで、貴重な得点を生み出す。試合は常に一点差。糸のような細いロープを綱渡りしている試合が続く。
勝ち進むにつれて周りの雰囲気がおかしくなった。余計な口を挟むやつらが出てくる。彼らが一番口を出したのがやはり打順だった。打順は可視化された情報。プロ野球の中継でもアナウンサーは頻繁に打順を話題にする。誰もが言いたいことを言えるところなのだ。
OBたちには並木が辛抱強く説明した。その上、最近のトレンドを大リーグ中継が伝え始めたので理解してくれた。
初回に得点したチームの勝率は六割。二得点すれば七割、三得点では八割近くに達する。初回をビッグイニングとするために、今まで四番を打っていた強打者を二番に置くなど、打てるバッターを前のめりに配置する。それも相手によって流動的に変える。
しかし「四番」という響きが自称野球に詳しい地元の有力者や市会議員に子どもの頃の憧れを思い出させる。その憧れを僕らに押し付ける。
彼らは暇だ。僕らの練習に平日から貼りつく。中にはグラウンドにまで入ろうとする輩まで出てきた。さすがに部長や他の教師が押しとどめる。もちろん嶋津は彼らに挑んでいく。
「俺たちは勝つためにやってんだ、あんたたちは何のために訳わかんねぇ口出しするんだ」
ポスターで見た事のある議員が言う。
「君たちが勝てば郷土の誇りだ。寄付金も集まるだろ。この学校の偏差値も上がる」
「郷土ってなんだよ、知るか。お前らは口を出すだけで責任取れんのか。金なら黙って出せよ」
並木が笑顔で割って入るが議員は収まらない。
「誰の尽力でこの学校があると思っているんだ」
「お前何言ってんだ?この学校大正時代に設立だぞ? お前いたのか? 大正に」
並木と部長、監督が頭を下げる。校長まで出て来て頭を下げる。

甲子園に行くためのデータを駆使し、球数を押さえる嶋津のリード。並木の出塁率八割を超えるバッティング。僕の肩にも肘にも疲れはない。
嶋津がにやつきながらも声を押し殺し、嬉しそうに僕と並木に言った。
「俺たちのBABIP、今、0.295」
並木が言った。
「行ったね!この数字、朔ちゃんは誇りにしていいよ!こういっちゃなんだけどスピードはそれほどじゃない朔ちゃんが制球力だけで叩き出した数字だからな」
「いや、この数字はチームで稼いだ数字だって」
僕は返した。嶋津がにやついて何か言おうとするのを制し、並木が言った。
「そうだよなぁ、嶋津のリードもいいけど、俺たちの守備も程々この数字に関わっているからな」
その後嶋津は「俺のリードが、俺のリードが」としつこく言っていた。でも嶋津も分かっていた。0.295。僕らや由美ちゃん、そしてチームの数字だという事を。
僕たちの作業が結果に近づいてきたのだ。

準決勝。朝から快晴。予報はこの夏一番の暑さになると告げている。相手は甲子園常連の強豪校。信じられないことに両校八回まで無得点で進む。
嶋津のリードが冴えた。バッターが読んだ球種とコースをことごとく外す。僕のボールも走った。スピンもかかっている。気持ちよく腕が振れる。
問題はスタンドだった。最初はノーシード県立高校の僕らに声援が多かった。しかし初回に一塁塁審の明らかな誤審ともいえる判定が僕らに有利に働いた。その後、微妙な判定が全て僕らに働く。場内の声援が徐々に相手校に多くなる。球場の雰囲気がおかしくなる。ワンプレイごとに感じたことのない熱が僕に響く。
さらに面倒な事が起きる。球審の判定が一塁審とは逆に僕らに厳しくなってきた。それも僕らの生命線である内角のコースをなかなかストライクに取ってくれない。球審がグラウンドを覆う雰囲気に乗せられているかに思えてしまう。嶋津はそれを見越して我慢強くサインを出す。しかし僕には嶋津の限界が見える。
一塁塁審と球審。強豪校と無名校。準決勝。クロスゲーム。見えて来た甲子園。そして訳の分からない球場の空気。そんな不必要な情報が嶋津の中で結びついている。
僕の頭に黒い染みが広がる。嶋津が秋の大会で審判の判定に異議を唱えたこと。今日の球審にもその話は伝わっているはずだ。
嶋津がベンチでスポーツドリンクの入ったカップを大きく揺らしながら僕に言う。
「朔ちゃん、この雰囲気に飲まれるなよ、審判にもな」
確かに僕らは観客席の争いごとを引き受けた様な、訳の分からない中で野球
をしている。そして予報通りの暑さでグラウンドは熱のたまり場になっている。
でも僕はさほど汗もかかず、頭の中はクリアだ。嶋津のキャッチャーミット
を始め、あらゆるものがくっきりと見える。メンタルは平坦。集中力が極まった状態。ZONEに入っていた。
嶋津が一番危うい。

八回の守り。ノーアウト一塁二塁から四球を挟んで何とかツーアウト満塁までたどり着く。
しかしそのアウトの両方が一塁審の微妙な判定。僕から見ても「セーフ」に見えた。
観客の大きなどよめき。嫌な熱さが球場を包む。スタンドから審判に罵声のようなものまで飛ぶ 。そしてそれを諌める客といさかいが起きている。並木がマウンドまで来た。
「朔ちゃんは大丈夫だろう、うちの守備も今日は地に足が付いている。悪くない。嶋津が心配だけど、このチームは嶋津のチームみたいなもんだ。あいつも何だかんだで自分でなんとかするし、あいつが駄目ならしょうがない」並木は僕を正面から見据え、背中を軽く叩いて戻った。

スタンドの熱は高まる。
アナウンスが次の打者をコールする。
相手の応援団から怒涛のような咆哮が起きる。球場が揺れる。
次は思い切って振りぬく五番打者。球種やコースを決めて打つタイプ。この大会絶好調だが、今日は無安打に押さえている。決め打ちをするので僕らにとって配球しやすいバッターだ。
初球。外角低め、ストライク。しかし球審の声が裏返っている。飲まれている。僕らの生殺与奪を握っている人間が雰囲気に飲まれている。
バックネット裏から球審に相手高校寄りの汚いヤジが飛ぶ。
「お前の眼はどこについてんだボケ!」
球審はマスクを取って汗を拭う。五十代後半だろうか。球審ともなれば一日に二百回以上の判定をしなければならない。あまりに過酷な仕事だ。そして無報酬。並木が言うには地元の保険会社代理店の所長をしているらしい。平日に仕事を投げうっての球審。
ボールが二球続いた。それだけで球場から唸りのようなものが起きる。周りが全て敵の様な雰囲気。 その後ファールが二球続いた。
2ボール2ストライク。次の嶋津のサインは勝負の内角高めストレート。バッターは外角を待っているという嶋津の読み。
ただ、今の雰囲気できわどいコースに投げ込むとボールと判定されてしまう。なので多少コースが甘くてもいいという嶋津からのサイン。
体力はある。身体も十分動く。足も踏み込める。ボールのスピンも集中力も大丈夫だ。
今日最速のストレートを細心のコントロールで内角高め、必ずストライクと言われるぐらいの少し甘いコースに投げた。指からボールが離れる際の引っ掛かりも完璧だった。
ボールは糸を引くかのようにキャッチャーミットに吸い込まれる。キャッチャーミットから強く高い音がした。バッターは動けない。呆然とし、顔に恐怖が浮かぶ。決まった。見逃しの三振だ。僕は小さなガッツポーズをしかけた。それより先に嶋津はキャッチャーマスクを脱ぎ雄叫びを上げた。

球審のジェスチャーが遅い。ジャッジが遅い。僕はマウンドを半歩降りながら球審を見る。時間が嫌な感じに引き延ばされる。空気の粒子が見えるぐらい、全てがスローモーションに見える。
球審はグラウンドに目を落とし「ボール」と告げた。瞬時に僕の頭に黒い塊が膨らんだ。ホームベースに走った。間に合わない。
嶋津は球審の前に立ちはだかり、叫んだ。
「どこがボールなんだ! あり得ね、何考えてんだ、どこがボールなんだ!」
そして球審の胸ぐらを掴んだ。

嶋津は高校野球が現在の体制になってから初めての退場処分となり、試合は負けた。

様々な思惑と配慮からだろうか、テレビのニュースにはならなかった。
しかしそれが逆に尾ひれがついた噂となり、ネットから広がった。
動画が大量にアップされる。
監督と部長は辞任した。
学校にマスコミが押し寄せ、知らない誰かがまるでないことを週刊誌に言う。ネットは沸騰し、SNSでは嶋津の顔がいたるところでUPされた。刑事事件にするべきだという人まで現れた。元ボクサーがyoutubeで俺のところで鍛え直してやると言い出す。教育評論家が嶋津を絡めてアンガーマネジメントの講座を開く。高校の電話は鳴りやまない。学校に行けない。
チームとしての対応はキャプテンとして並木がした。
「いつも沈着冷静な彼でした。暴力を振るう姿など見たことがありません。人に寄り添うことができ、チームをまとめ上げ、チームの力をあげ、僕たちをより野球を好きにしてくれた素晴らしいキャッチャーです。今回のことが今でも信じられません」
並木は自分で様々な関係各位に出向き、頭を下げた。今まで面識もなく野球部に関係なかった人が郷土の名を汚したと言い、激怒する。それでも並木はあらゆるところに足を運んだ。
嶋津のスマホはメッセも既読にならず、通話も反応がない。由美ちゃんも高校に来ていない。

三週間後、僕は嶋津の家に行った。それまでは報道陣やyoutuberのような奴らが家の前にたむろし、行ける状況ではなかった。
家の前にはまだ三人ほどいる。僕は躊躇し、離れたところから様子を見ていた。嶋津のお母さんが玄関から出てきた。すかさず報道の人間がお母さんに歩み寄りフラッシュがたかれた。その時ドアが勢いよく開けられ、嶋津が猛然と飛び出してきた。歩み寄った一人に飛び蹴りを喰わらせ地面にごろごろ転がす。カメラマンに肩から突っ込み倒す、そのままカメラを取り上げアスファルトに叩きつけた。高価な機械が壊れる音が響く。
駆け寄ろうと足を踏み出したその時、腕をを強い力で引っ張られた。振り向くと並木がいた。
「朔ちゃんが今行っても何もならないぞ」
並木の眼は言っている事と全く違う目をしている。
「俺たちがあそこに突っ込んで行くと騒ぎが大きくなる。来年の奴らが困るだけだ」
僕らは立ち尽くした。目の前で二年半一緒にフルスイングした友が戦っている。その顔は憤怒とはほど遠い。淡々とカメラマンに蹴りを加えている。阿修羅像の様に。
隣の家の二階の窓に由美ちゃんの姿が見えた。由美ちゃんは嶋津を見ているのか、それとも何もしようとしていない僕らを見ているのか、わからなかった。

嶋津はどこかへ消えた。

騒ぎが冷めた頃、僕は列車に置いて行かれた様な喪失感を抱いた。その列車に乗れば何とかなる。でもその列車に自分が何を働きかけたのか、自分が何を決めたのかが分からない。
そして僕の腕には並木が引っ張ったあの日の感覚が残った。

二カ月程して差出人の名前が無い大きな封筒が届いた。
限定版のスピッツのレコードだった。レコードプレイヤーなんて誰も持っていない。そのあたりを何も考えずに送るのが嶋津らしい。それを考えると何も言えなくなってしまった。
梱包が甘かったのかレコードは割れてぐしゃぐしゃになっていた。その破片が僕らの高校野球が終わったことを否応なしに突き付けた。



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