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ランタン

 ようやく予約の取れたキャンプ場。以前から家族三人と犬でそのキャンプ場に通っていた。芝生が美しく手入れされている。しかし最近のキャンプブームで滅多に予約が取れなくなってしまった。前に来た時はキャンプ慣れしていない人たちが夜遅くまで騒いでいた。今日はそんな人がいなければよいのだが。
 高速道路を降り、少し山道を走ると視界が開けた。五月の初夏。青々とした草原と周りを取り囲む美しい山々が広がっていた。
「家は雨だったけど、晴れたね、良かった!」
 小四の聡美が言う。この子がいつまでキャンプに付き合ってくれるかわからない。家族の思い出とやらを多く残してあげたい。
 妻はキャンプの料理に凝っている。インスタやFacebookに写真や動画を上げている。インスタとFacebookであげる写真は微妙な差異がある。でも何が違うのかと言われればわからない。今日はダッチオーブンで鶏の丸焼きと生春巻き。明日の朝食はホットサンドとシーザーサラダだそうだ。シーザーサラダの材料を買い過ぎた、今回は準備の時間がなく中途半端、見栄えがしないと言う。
「この車の後ろのドアの音、何とかならないの?」妻が言う。
 ボルボを買って八年目。トヨタやホンダよりもボルボの方が周りからセンスが良く見える。それだけで買った。最近バックドアの開け閉めの際に象の鳴き声のような音がする。直すにも金がかかりそうだ。そしてキャンプの荷物を積み込む時に毎回揉める。三歳になるコーギーの居場所。キャンプの荷物はプラスチックや木製の見栄えのするコンテナにまとめる。犬が入るケージの直方体はプラや木のコンテナと相性がいい。しかし聡美は自分の隣にケージを置きたいという。後部座席が半分埋まってしまう。荷物を積むのに四苦八苦する。バックドアを開けた時の見た目が崩れる。おまけに巨大なダッジオーブンまで積み込まなければならないのだ。

 10時前に到着し受付をする。キャンプ場のスタッフはすべて入れ替わっていた。短い受付時間の間に四回から五回、チェックアウトの時間を守るように言われる。ホテルじゃあるまいし。チェックアウトの次の日は平日だ。部屋を掃除するわけではないのだから少しぐらい遅れても誰も困らない。前のスタッフは撤収を手伝ってくれたりした。キャンプに時間厳守の雰囲気は似合わない。アウトドアはそんな文化ではないのだ。最近はいろいろと変わった。ブームって奴は何かと面倒だ。

 今回は場所があらかじめ指定されている。指定されたサイトまで行く。隣との距離が少し近い。
「隣に誰が来るか、楽しみだね、お父さん」聡美がはしゃぐ。
 以前、他のキャンプ場で隣になった夫婦と仲良くなった。常識的な方々。二人とも気さくで奥さんはスクールカウンセラーだった。小学生の聡美の話を聴くことなど朝飯前。旦那は左足が義足。自分でそれをネタにする。
「聡美ちゃん、知ってる?車の免許って二種類あって、オートマとマニュアルってあるの。オートマはペダルが二つで全部右足で出来るんだけど。マニュアルはペダルが三つあって左足も使うの。俺、左足無いからマニュアルの免許取れないんだよね」
最初はそんな旦那の義足ネタに3人ともなんて答えてよいかわからなかったが、すぐに慣れた。奥さんが言う。
「日常になれば大したことないんですよね」
 聡美には貴重な経験となり、今でも交流がある。
 そこまでお隣さんに恵まれることは少ない。ブームが起きてからはヤンキー上がりが大きなバンで乗りつけ、深夜まで騒いでいたり、いくつかの家族が一緒になったグループキャンプがあたりかまわず盛り上がったりする。
 まだ来ていない隣の客が気になる。面倒な客でなければよいのだが。

「お父さん、ファーガス、ケージから出していい?」
 ファーガス。エリザベス女王が自分の犬に名付けた名前。youtubeで女王に懐くコーギーを見て聡美がその名にした。女王が名付けた名前の犬が家に居ると何か見張られている気がする。聡美にリードをつける様に言う。キャンプ場でリードをつけない犬など論外だ。
 僕と妻は荷物を車から運び出す。僕がタープとテントを設営し、妻がキッチン台やテーブルなどを組み立てる。タープやテントは命を守る物だから一流と呼ばれるメーカー、その中でも良いものを使っている。風雨に耐える形状や生地。その辺が評価が高いメーカーと、そうでないものとは大きく違う。ホームセンターのものなどもっての外だ。近くにその様なものが設営されるとうんざりする。固定させるペグもプラスチックのおもちゃの様なものが多い。暴風でペグが抜け、アルミのポールがこちらに飛んで来たらそれこそ凶器だ。
 タープを立てるのは簡単だ。というか、風雨をしのぐタープを素早く簡単に立てられないのはどうかと思う。
 妻がテーブルクロスを広げる。色鮮やかな赤いタータンチェック。家で使うより美しく光るカトラリー。そこまで必要なのかと思う。しかし心地よい事には間違いがなく、そして周りから羨望の目で見られる。少し前にキャンプ雑誌に取材され掲載された。妻は昼食のカニクリームパスタの用意を始めた。

 聡美がファーガスを連れて帰って来た。テントの設営を手伝うと言う。キャンプ場でよく見かける風景がある。両親が懸命に設営などしている時にスマートフォンをいじっている子ども。それに比べれば周りから見てもしっかりとした娘だ。私立の小学校に入れたのが良かったのか、それは分からない。
 二人で車から寝袋をテントに運び込む。中で娘が寝転びながら言う。
「お隣、どんな人が来るのかな、同じぐらいの子とか、犬、いたらいいな」
 
 隣のサイトにミニバンが来た。少し古い日産。このキャンプ場は共用の通路から自分のサイトに車で乗り入れる。ミニバンはサイトに中途半端に入り、共有の通路に大きくはみ出している。車から男性、女性、そして聡美と同じぐらいの女の子が降りて来る。後から黒い犬。犬種は分からない。多分雑種だろう。リードは着けていない。聡美が声を弾ませる。
「ね! 私とおんなじぐらい! 四年生だったらいいな、犬もいるし!」
「リード付けてない。気を付けなさい。あんまり近寄らないように」
「大丈夫よ。これからリード付けるのよ!」
 その家族は荷物を車から引きずりだす。ほとんどがダンボールに入っている。美しい芝生に茶色が広がる。
「お父さん、あの子に話しかけていいかな?」
 同い年ぐらいの女の子も荷物を出すのを手伝っている。
「今が一番忙しい時だから、少し後にしなさい」
 タープよりも先にテントを立て始めた。急な雨風を防ぐためにもタープを建て、その下に荷物を集めるのがセオリーだ。あまり知らない人たちかもしれない。テントは案の定ホームセンターのものだった。生地の厚みが我々のものとは比べるべくもない。僕はタープの日陰で竹とアルミを組み合わせたアウトドアチェアに座り、隣の様子を目立たぬように見ていた。妻は昼食の準備を済ませ、スワッグを作り始めた。スワッグはドライフラワーを束ねる花束だ。テントに飾る。聡美も一緒に作り始める。
「お母さん、この紫の花、きれいだから一緒にしようよ」娘が言う。
「その紫だと全体が暗くなって周りからあまり目立たないじゃない、黄色のデイジーにしない?」

 隣の家族は設営にずいぶん時間がかかっている。テントの立て方が分からないらしい。黙って取説を見ている。手伝ってやってもいいが、考えてみると挨拶をしていない。こんな時はたいてい後から着いた方が挨拶をするものだ。会釈でもいい。それすらない。
 ファーガスが僕の周りをうろつく。何か欲しそうだがご飯をあげたばかりなので食べさせるつもりはない。ファーガスは左前脚を曲げて大げさに鳴き始めた。この仕草をよくやる。足を怪我したというアピールだ。もちろん怪我などしていないので放っておく。しばらくすると僕の座るアウトドアチェアの脚をかじり始めた。我が家のほとんどの椅子やテーブルの脚はファーガスの噛み跡がついている。
「それにしてもお隣さんは挨拶もしないな」
僕は誰に聞こえるでもなくつぶやいた。それが聡美に聞こえていた。
「そんな事ないよ。さっき頭さげていたよ」
「そうか? 普通、こんにちはぐらい言うだろ」
「ちゃんとあいさつしてたよ」娘がスワッグを作りながら言う。
「聞こえなかった」
「ね、この余った葉っぱとか、焚き火やる時に燃やしていい?」
 かまわないと僕は言い、上に派手にパセリが乗るはずのカニクリームパスタの皿を用意し、コーヒーを淹れた。昼時だ。

 パスタを食べながら隣の家族に目を遣る。テントの設営は中断したらしい。タープもまだだ。テーブルと椅子を出し、日の光を遮るものが何もない場所でカップラーメンを食べている。三人とも黙っている。食事の際に毎回話が弾むものでもない。ただ、さっきから会話らしいものが聞こえない。キャンプの設営となると、指示する者や文句を言う者、あれやこれやと声が飛び交う。でも隣の家族から声が聞こえない。
 食べ終えた娘がファーガスを連れて焚き火で燃やすものを探しに出かけた。僕は食器を洗うとやることがないので、結局椅子に座り何となく周りを見る。少し前と比べるとキャンプ場の景色が変わった。恐ろしく高級なテントやタープが目に付く。我々の物よりも値が張るものがある。道具は値段で決まる物ではないのだが、余計に隣のサイトが目立つ。
 
 聡美が帰って来た。隣のサイトの女の子も一緒だ。黒い犬には一応リードが付いている。
「あっちで一緒になったの、優衣ちゃんって言うの、ランタン見せてあげていい?」
 ランタンは聡美が自分でお小遣いを貯めて買った。僕が昔使っていたオイルランタンに憧れたらしい。少しの風でも消えない。しかしオイルを燃料とするので煤が出る。手入れは全部自分でやると言い小さな赤いオイルランタンを買った。僕のオイルランタンは手入れが面倒になったので今は使っていない。
 聡美は離れた所で隣の子にランタンのつけ方を教えている。犬たちは喧嘩をするわけでもなくリードを着けてうろついている。
 隣のサイトはようやくタープとテントが立った。テーブルを挟んで夫婦はスマートフォンをいじっている。人それぞれだが、さすがにこんなところで夫婦でスマホはどうかと思う。聡美と隣の子はオイルランタンの手入れをし、丁寧にケースにしまい、二人で手をつなぎ犬たちを連れてどこかに行った。
 聡美はしばらくして戻って来た。自分のスマートフォンを取り出し隣のサイト行くと言い、走って行った。小学校四年生でスマートフォンは早い。そして始終スマートフォンをいじる大人もどうかと思う。ただ、電車通学をさせる不安感から聡美に持たせていた。
 隣のサイトに子どもがお邪魔するのだから、菓子でも持って挨拶でもしようかと腰を浮かせたが、テーブルを囲んだ四人が皆スマートフォンをいじっているのが目に入った。行くのを止めた。

 キャンプ場の夕飯は早い。暗くなる前に支度を終えたい。ダッチオーブンの周りに炭を敷き詰め、火を起こす。そんなことをしていると娘が戻って来て手伝う。聞いてみる。
「向こうで何お話してたの」
「いろんなこと。犬の事とか、キャンプの事とか」
 そんな声はまるで聞こえなかったが。
 暗くなる前に照明の用意をする。聡美が嬉しそうに赤いオイルランタンをテーブルに出す。食卓にオイルランタンがあると、暖かみのある灯りが雰囲気を出す。前に雑誌の取材を受けた時、昼だというのに妻が聡美のオイルランタンをテーブルに並べた。勝手にオイルランタンを出された聡美はその日寝るまで妻とは口を聞かなかった。
「隣のおうちの犬は『もく』っていうの。凄いマイペース。みんなで散歩してるのに一人だけ全然違う方に行くの」
「それ、躾がなっていないだけじゃないのか」
「そんなことないよ、だっておやつあげるときはちゃんと待てとかできるよ。そんなことより、あっち見てよ、すっごい夕陽、ねえ、すごい夕焼け! 全部燃えてる! 燃えてる!」
 私はダッチオーブンの周りの炭を取り除いていた。妻は聡美に「テーブルクロス、しわになっているから直して」と言う。
 
 ダッチオーブンの料理はうまくいったようだ。火加減と時間に失敗すると、鍋の中には黒こげの鶏しか残らない。動画も画像も残らないから「いいね」も残らない。鶏の丸焼きと豚バラブロック、丸のままの玉ねぎや人参、そしてにんにく。妻はハーブと一緒に綺麗に盛り付け、テーブルに置き、カメラを取り出した。彼女はインスタやsnsに載せるためにわざわざミラーレス一眼カメラを買った。そのカメラが聡美や僕に向けられることはほとんどない。
「早く食べようよ! 冷めちゃうし、おなか減ったよ」聡美が言う。
 ファーガスは肉の匂いを嗅ぎつけてうろついている。足で軽く払う。
「このタープ、こんなに明るかったか?」
「お父さん、私と太陽で充電出来るLED買ったじゃん。何だっけあったかい色の光ってやつ」
「電球色かな。おこずかいで?」
「二人でwestに行って買ったじゃん!お父さん、覚えてないの? 信じられない」
 隣の様子はタープの陰になってわからない。事務室のような白っぽい明かりが揺れる。キャンプの数を重ねると使う照明が白い蛍光色から暖かみのある電球色になる。娘のオイルランタンは趣のある炎を揺らめかせる。
「優衣ちゃんたち、何食べてるのかな」
 娘が鶏を頬張りながら独り言のように言う。
「炭の火使って焚き火やるよね、その後の花火とか優衣ちゃん誘っていい?」
 隣からは相変わらず会話が聞こえない。
「お父さん、聞いてんの?焚き火とか花火とか優衣ちゃん誘っていいって聞いてんの」
「ああ、もちろん」
 
 後片付けを終わらせ、聡美が隣の優衣ちゃんを呼び焚き火を始めた。優衣ちゃんはお礼にと発泡酒を二本持って来た。発泡酒。ダッジオーブンで使った炭の上に焚き木を載せるので簡単に炎が作れる。それでも炭の位置や焚き木の組み方で炎の形が随分変わる。「井」の形に組むと見栄えが良く炎が上がる。二人の小四女子はそんな事はお構いなしに焚き木を突っ込む。二人に道の駅で買った値が張るりんごジュースを持って行く。優衣ちゃんは丁寧に「ありがとうございます」と頭を下げて言う。
「焚き火、楽しい?」
「はい、とても楽しいです」
 少し小さい声で優衣ちゃんが答えた。着ているものは多分ユニクロだろう。妻は聡美にユニクロを着させない。他の子と差が生まれないと言う。ユニクロは生地も縫製も良いと思うのだが、妻がそういうのであればそうなのだろう。
 何回か焚き木が崩れ、継ぎ足した。夢中で火遊びをする二人の横顔は炎に照らされ橙に染まる。僕がキャンプにのめりこんだのも焚き火だった。火には何か人をそうさせるものがあるのだろう。そういえば焚き火で他の人と差をつけたとか考えたことがない。なぜなのかよくわからない。よく考えるとオイルランタンもれっきとした火だ。僕のオイルランタンはどこに片付けたのだろう。僕は二人を見ながらキャンプを始めた頃の事を思い出していた。その頃は焚き火台以外はそんなに良いものを持っていなかったし、段ボールも便利だった。一緒に行く妻との食事もカップラーメンやレトルトのカレーだった。それで楽しかった気がする。
 
「夜のお散歩したい」
 聡美が言い出した。このキャンプ場はそこまで山中ではない。近くにリゾートホテルもある。月は雲に隠れているが、近場を廻るくらいならそこまで心配もない。一応優衣ちゃんのお父さんとお母さんにお知らせしておく方がよいだろう。挨拶も兼ねて隣に行こうとしたが優衣ちゃんがスマートフォンを取り出し、LINEに打ち込んだ。すぐさま返事が帰って来た。
「お父さんもお母さんも、よろしくお願いしますって言っています」
 
 森は湿っていた。昼の親しみのある乾いた暖かさはない。二人はしっかりとした暖かい服装をしている。聡美はノースフェイス、優衣ちゃんはユニクロのフリース。三人とも灯りを持っている。聡美はあの赤いオイルランタン。オイルランタンは持ち運びは出来るが、ledなどの方が安全だ。しかしオイルランタンを持って行くと聞かなかった。
 小路を進む。夜の小路は思ったより濃密な森の匂いがする。少したじろいだが、子どもたちの前でそんな姿は見せられない。重く湿った風が漂う。聡美が闇の圧に不安になったのか僕と手を繋いだ。優衣ちゃんはいつの間にか僕のジャケットの裾を掴んでいた。
 少し奥でガサガサと音がする。聡美が「わ」と声にならないものを出す。優衣ちゃんはジャケットを強く引っ張る。この辺りに熊とかどうだったんだっけとか今更考える。三人で動かずに音がした方を見つめていた。また、ガサガサと音がした。光るものが二つ見えた。
「狐だ、狐」僕はかすれた声で言った。
 その声で狐は身を翻し、闇に紛れた。尻尾がふわりと宙を舞った。
「見た? きつね、きつね!」聡美が言う。
「見た見た見た見た! 尻尾、大きかった!」優衣ちゃんが答える。
「音しないでジャンプした!」
「おっきかったのに音しないでジャンプした! 尻尾ふんわりした!」
 狐は身軽に、何からも捕らわれていないような身のこなしで森に消えた。
 二人は大きな声で話を始めた。森の生き物。熊は怖い、狸はいるのか、森でうさぎを見ることはどんなに難しいか。優衣ちゃんは森に詳しく、そして聡美もついて行ける思考をいつの間にか持っていた。落葉樹と針葉樹、落ちた葉が腐葉土になる事、動物の死骸や糞もそれを助ける事。そしてこの森の生態系で一番上にいる動物は何かと言う。
「熊! 熊よ!」聡美が言う。
「ここには熊がいるとはあんまり聞いたことがないな」僕が答える。
「じゃあ、さっきのきつねかな」聡美が答える。
「それでいい!」優衣ちゃんも続けた。

 サイトに戻り二人は花火をやり始めた。遊ぶ事について子どもは体力が尽きない。どこのキャンプ場でも早朝から子どもたちの声が響く。そして全開で遊んでいる。妻は先にテントに入っている。このキャンプ場は手持ち花火であれば許可されている。二人は少し離れた所で聡美の赤いランタンを灯して花火をする。赤いランタンの灯は穏やかに周りの暗闇をいなしている。
 子どもの頃の花火ってなんであんなに楽しかったのだろう。暗闇とか火とか、非日常がまとめて用意されていたからだろうか。優衣ちゃんが持って来た少しぬるい発泡酒を飲んだ。いつも飲んでいるクラフトビールと何が違うのかと考える。色々違う気がする。それが果たして大事なものなのか、よく分からない。
 花火が尽き、優衣ちゃんは聡美に大きく手を振り隣のサイトに帰って行った。優衣ちゃんが帰ると聡美は電池が切れたかのようにテントに入り、寝袋にくるまった。

 外が明るくなった頃、裂くような犬の叫び声で目が覚めた。聡美が跳ね起きて外に出る。ぼんやりした頭で僕も続いた。妻も起きている。
 ファーガスが芝生に転がり、足をひくつかせている。聡美がファーガスに駆け寄り抱きしめた。横には隣の黒い雑種が身動きもせず我々を見ている。ファーガスの様子を見ると隣の黒い雑種に噛まれたか何かされたようだ。ぐったりとし聡美に抱きしめられるファーガス。
 隣のサイトから優衣ちゃんが走って来る。表情が凍ばっている。
「ごめんね、ごめんね、うちの『もく』がなんかやったんだよね、ごめんね、ごめんなさい」
 後ろから優衣ちゃんの両親が走って来る。大きな身振り手振り。それを見て優衣ちゃんが言う。
「本当にごめんなさい、すぐに病院に行きましょう、私たちの車でいいでしょうか」
 二人はすぐに自分たちのテントに戻り、またこちらに走って来た。手にはスマートフォン。
「うちの犬が申し訳ない事をしてしまった様です」
「そちらのキャンプ道具を放っておく訳には行かないので、とりあえず私たちの車で近くの動物病院に行きましょう、いかがでしょうか」
「この近くだと車で四十分程の所にある様です」
「日曜なのでクリニックは休診ですが、今Twitterで院長のアカウントを見つけました。そこにダイレクトメッセージを送りました」
 夫婦はこの内容を瞬時にスマートフォンに打ち込み、私たちに見せた。お父さんはタブレットを持ってきて、夫婦の文章を転送し誰もが読める様にした。二人の大きな手振りは手話だった。聴覚に障害があるご両親だった。
 優衣ちゃんは泣きながら聡美に寄り添っている。優衣ちゃんのお母さんも聡美の横にしゃがみこむ。お父さんは私と妻にタブレットを見せる。「いつでも走ります行きましょう」。

聡美がファーガスを突き放し、ファーガスは芝生に転がった。
「ふぁーーーーーーーーがす!!!」
 ファーガスは左前脚を上げて中途半端な鳴き声を上げている。聡美が跳ね起き優衣ちゃんの黒い犬を抱きしめた。
「ごめんね、うちのファーガスが。本当は何かしたのはファーガスなんだよね、ごめんね、みんなが嫌な目で見て怖かったよね」
「聡美、どういう事?」僕が声を掛けた。
「ファーガスと優衣ちゃんの『もく』が多分喧嘩とかしたんだと思う。ファーガスがやられても無いのに大げさにしたんだ。ほら、ファーガス普通に歩いてる。もう、最低。優衣ちゃん、ごめんなさい」
 聡美は優衣ちゃんの『もく』を抱きしめながら言う。黒い犬は何事もなかったかのように遠くの山を見つめている。僕は自分のスマートフォンを取り出し、優衣ちゃんの両親にお詫びの文章を打ち込んだ。二人は何事も無く本当に良かったです、とタブレットに表示させた。妻がよろしければみんなで朝食いかがですかと伝えた。

 我々のタープの下にテーブルを二つ並べた。隣の一家は食パンと目玉焼きのつもりだったらしい。我々のホットサンドと具材は一緒だ。妻が隣のお父さんと手際よく準備をする。お隣の食事はお父さん担当らしい。皆でホットサンドを食べる。ホットサンドメーカーはアルミダイキャストを使い、熱伝導に優れているものを選んだ。しかしそんなことはどうでもよくなった。買い過ぎたシーザーサラダの材料も役に立った。
 ホットサンドは全員分が出来るまで時間がかかる。皆がスマートフォンを取り出し、LINEを交換した。タープの下の六人は下を向き、スマーフォンに文字を打ち込み、LINEのグループで話をした。キャンプはいつ始めたのか、道具は何が便利なのか、いいキャンプ場はどこなのか。そして小学四年生の勉強の事。勉強が話題になると、二人の四年生はそっと退出した。
 
 お隣の撤収作業を手伝う事が出来た。先方は遠慮したが、彼らだけでやるとレイトチェックアウトでいくら取られるか分からない。六人でやった。別れ際、聡美と優衣ちゃんは車の窓からいつまでも手を振っていた。

 帰路、夕焼けが僕らを包んだ。車の中の隅々まで茜色に染まる。聡美と妻は心地よさそうに寝ている。昨日聡美がすごい夕陽と言った時、何故僕はその夕陽を見ようともしなかったのだろうか。目の前のダッチオーブンの周りに敷き詰められた炭などどうでもよかったはずだ。聞き流して見過ごすたびに聡美が教えてくれる夕陽が色褪せたものになってしまうのに。帰りの車の中で僕が一人で見た夕陽は聡美が教えてくれた夕陽ではないのだ。

 その日の深夜、僕は自宅のキャンプ道具が片付けられている小さな部屋に入った。少しためらったが聡美の赤いオイルランタンを取り出した。曇り一つない。フィーラーキャップと燃料タンクに塗装のはげがある。逆にそれが味を出している。棚の奥底から僕のオイルランタンを引っ張り出した。グローブは破れたまま。ホヤは煤で黒い。フィーラーキャップの周りは燃料の汚れが目立つ。全体がくすんでいる。しばらく二つのランタンを見つめていた。僕のランタンも聡美の様に磨かれ、曇りがないものだったはずだ。とりあえず僕は自分のランタンを磨くことにした。傘を外し、ガラスのホヤを慎重に外す。破れたマントルを新しくする。このマントルに燃料が送り込まれ燃やされ、灯りとなる。ウエスに僅かに洗剤を染み込ませ大まかに汚れを落とし、きれいなウエスで磨く。二十分もすると見違える様になった。灯りを燈すには取り付けたマントルをライターなどで空焼きする。慎重な作業だ。少し間違うと繊維状のマントルが破けてしまう。
 うまくいかない。マントルの皺を伸ばし、ライターの先端がマントルに触れない様に、振動を与えない様にやっているのだが崩れてしまう。一枚400円はする。三回やって諦めた。
 たぶん僕は何かを失くしている。それをいつ失くしたのかはわからないし、例えそれを見つけたとしても僕は取り戻すために何かしようとも思わない。何かができるとも思えない。僕もそれなりに歳を重ねているのだ。でも何かを失くしている事には気が付いた。
 ランタン磨くぐらいしかないのだ、たぶん。リビングで僕は発泡酒を飲みながらそんなことを考えた。
 そういえば優衣ちゃんのお父さんは日本酒の熱燗が好きだと言っていた。今度一緒に飲むのもいいかもしれない。
 
 

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