見出し画像

令和なんてだいきらい

今更感がかなり拭えないけれど、ドラマ「不適切にもほどがある」をNetflixで見ている。
現状9話が終わったところ、あと1話でフィニッシュだ。
まだ物語の結末を知らないから、感想をまとめるには尚早かもしれないと思いながらも、すごく面白い。もっと早く見ればよかった。
あんなに人から勧められたのに、なんですぐ見なかったんだろうと、ちょっと後悔している。
最近は韓国のドラマばかりで、日本のドラマには期待というか興味さえほぼなかったのに、「たまにはやるじゃん」と誇り高くなってしまう、日本人魂。

と同時に、「やっぱりあの頃はよかったなあ」と心の底から思ってしまった。
正確に言えば、ドラマの舞台である昭和の日本を、生身の人間として経験したわけではない。
平成の3分の2しか実感は持っていないので、昭和を経験した人生の先輩方から、「あの頃もあの頃で大変だったぞ」と言われると、「まあそうですよね〜、人間ないものねだりですよね」ということしか言えない。

でも、ドラマで描かれている昭和の風景や、自分自身が生きた平成を思い出した時、どう考えても「令和はないだろう」と思ってしまう。
色んなものは便利になって、人々が「嫌だなあ」と感じていたものは、改善され楽になった気もする。
じゃらじゃらして重い小銭を数えないで済むようになったし、自分に合わない会社で定年まで勤めなきゃってこともなくなった。

だけど、人間の感情そのものは、時代が変われど本質的に変わらない。
だから、どんなに浄化された風に見えた社会でも、嫌な人は嫌。
そのネガティブな気持ちを、相手に直接伝えられたらいいけれど、そんなことをしたらすぐにハラスメントになってしまう(むしろそんな気持ちさえなくても、ハラスメントになる場合もある)。
誰にも言えないから、誰も見てないところで言いたくなる。
そうして行き着く先がSNS。
自分をフォローしてくれている人も、いいねしてくれる人も、知っているようで知らない。
顔を突き合わせたことはない、でもなんか、感性と価値観が似てるっぽい人たち。
実感があるようでない、雲みたいな空間に投げ込めば、自分のイライラも、全部空に消えて、飛んでっちゃうような気がする。

なんて都合のいいことはない。
つぶやいて、吐き出しても、胃に何も残っていない時の吐き気と同じで、何も出せたわけじゃない。
出せないまま、どんどん蓄積していく。
便秘みたいに、ちょっとずつ体と心が重くなる。
どこかで出さないと、やり切れなくなる。
だから、他人にぶつけるんだ。
しかも、見えない他人にぶつけるんだ。
見える人に、相対する勇気も強さもないから。

そうやって、今度は見ず知らずの人の投稿に、ケチをつけたがる。
冷静に考えれば、何の道理もない。
その人が何をしたって、自分には関係ないのに、画面の中の出来事や他人の暮らしが許せなくなってしまう。
そして、苛立ちがテキストになり、名前も顔も知らない誰かの心を、どこかで、たしかに、傷つける。

そんな時代だ。
いつからこんな、陰湿な時代になっちゃったんだろう。
別に、ないものねだりしたいわけではない。
でも、どこかでみんな、今この時代の限界に気付いてしまっているのではないか。
「多様性」と言ったところで、全部が許されるわけじゃない。
全部許したら、困るのは自分自身だ。
でも、自分の自由を否定されたくはない。
そんなことを全員が言い出したら、ただの「カオス」でしかない。
それくらい、当然みんな、わかってるはず。

でもなぜか、「多様じゃなきゃ」とか「尊重しなきゃ」とか、「良さげな道徳」を守りたがる。
薄っぺらいし、本当は無理だって、きっとどこかで思いながら。

こんな時代だって、いつか遠い未来に思い出せば、「あの頃はよかった」と思うのだろうか。
時が経てば、全部美化されちゃうんだろうか。
満ちてるのに満ちてない、どこまでいっても心が乏しいこの時代。
今が嫌いなわけじゃない。好きだし楽しいこともある。
なのにどうしても、この時代が好きになれない。
私が悪いんだろうか、ひねくれているんだろうか。
そうなのかもしれないけれど、令和なんて、だいきらいだ。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?