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答案用紙はラブレター

この季節になると、地下鉄のホームに「受験生頑張れ!必勝!」みたいなポスターを見かけることが多くなる。
職場でも、「娘が今週末受験だから、飲みにも行けない」なんて嘆きを耳にしたり。
本格的な受験シーズンだ。

私は高校まで北海道で育ち、そこから東京大学に入った。
一応現役で合格したし、一応4年で卒業した。
客観的に見て、胸を張れる学歴だと思う。
それでも「受験」という文字を見ると、受験生だったあの頃だけは二度と戻りたくないと、心の奥の方がズキズキ痛む。

なぜ東大を目指すことになったかは、あまり覚えていない。
とにかく地元を出たくて、だけど東京っていうのも何かふつうでつまらないなと、変なところでとんがっていたから、最初は関西の学校にしようとしていた。
でも、当時の担任だったか、国語の先生だったか、「行けばいいのに、東大。お前は東大だ」みたいなことを言われて、「そうかなあ」と思いながら、ずいぶん中途半端な心づもりで志望校を決めた気がする。
将来の夢とかやりたいこととか、一つも思いつかなくて、何となく留学したい気持ちくらいしか持ち合わせていなかったから、自分の中に決め手はなかった。
どこでもよかった訳ではないけれど、どこがいいかはわからなかったから、「お前は東大だ」と言われたらそれが一番確からしい気がしたのだ。
そんな感じで、確固たる熱量はないまま目指すことになったのだけど、目標なんてなくても、「決めたらどこまででも頑張れる」のが当時の私だった。
だから、死ぬ気で頑張った。

当時はもちろんまだ10代。
自分の限界がどこにあるか、自分でもわかっていない状態で、無限大に頑張るから、そのうち体と心がついていかなくなる。
今思い出せば、体はもう限界だった(というか一部壊れていた)し、心も常に極限状態にあった。
なんだけど、体がだめでも心で突き進んだり、心がだめでも体が勝手に動いたり、そういう謎の忍耐力を持ち合わせていたので、どうにかこうにか、合格まで辿り着くことができた。
今テレビでYoutubeを垂れ流しながら、ベッドでこの文章を書いている怠惰な自分からは残念ながら全く想像できないほど、私は自分に厳しかったみたいだ。

地を這うような辛くて辛い受験期だったのだけど、楽しいことが何もなかった訳ではない。
私がいた北海道では、東大を受験する同級生はわずかだったから、高校の先生も一丸になって「絶対東大に合格させるぞ!」という熱意で、色々とサポートをしてくれていた。
通常の授業だけでなく、特別な宿題を出してくれたり、その解説をするため放課後に時間を作ってくれたりと、塾でもないのにかなり個別対応をしてくれたと記憶している。
東大の試験はどの教科も記述式で、記号で答える問題はほとんどない(今はどんな内容なのか知らないけど)。
だから、過去問を解いて自分で採点しようにも、自分の解答が何点になるのか判断がつかない場合が多く、先生の採点や解説が必要だった。
用意してくれた宿題に取り組んで、答案用紙を提出すると、先生の赤字と点数が入ったものを返してくれる。
そのやり取りを週に3回ほど繰り返し、週に1回は先生の部屋に行って、今週提出したものを振り返りながら、「なぜこの解答だと足りないのか」「このポイントを書けたのは素晴らしい」みたいな解説をしてもらっていた。

親身になってくれた先生は何人かいて、宿題を頑張ると職員室の冷蔵庫からゴディバのチョコレートを取り出して「おやつに食べてね。糖分は大事よ」と渡してくれる先生や、私がコーヒーより紅茶が好きと話すと、その翌週から美味しい紅茶を用意してくれる先生など、本当に先生方には恵まれていた(食いしん坊が際立つ2つの事例)。
当時の私は家族と上手く関われなくて、自分以外の家族と価値観の違いを感じることが多く、それを口にしても家族を困らせてしまうから、少しずつ話すことが怖くなった。
家族だけでなく、周りの同級生に対しても、自分を見せたくない気持ちが強く、話すことにすごくコンプレックスというかストレスを感じていたように思う。
そんな私にとって、個性的な先生たちから直接話を聞ける時間は、とても楽しかった。
私が知らない世界や時代のことを、面白そうに話してくれる先生は、心の拠り所であると同時に、心を広げてくれたような感じがする。

そうして宿題と答案用紙のやり取りを続ける中で、ある先生が教えてくれた言葉がとても印象に残っている。
それが「答案用紙はラブレター」という言葉。

私が受かるか落ちるか、決めるのは採点者だ。
でも私は、その採点者のことを何も知らない。
男なのか女なのか、優しいのか怖いのか、何が好きで何が嫌いか、何もわからない。
だけど、その人が私の明暗を占う。

本当はその人に直接会って、私の考えを力説できると良いのだけど、そんなことはできないから、私の思いを伝える手段は答案用紙しかない。
だから、精一杯の気持ちを答案用紙に込めなければならないんだよ、と。
だから、答案用紙はラブレターなんだよ、と。
答えがわからない問題も、時間がなくて解けないことも、沢山あると思う。
でも、最後まで行き着けなかったとしても、「ここまではわかったんです、こうやって考えようとしたんです」と文章で伝えないといけない。
だって、伝えないと届かないから。
ちゃんと伝わるように書けば、きっと採点する人もわかってくれる。
ロボットじゃなく、人が読んでくれるから、その人のことだけ考えればいいんだよ、と。

「答案用紙はラブレター」というこの言葉を、私はとても大切にしていた。
どうすれば伝わるんだろうと、見えない相手のことを考えながら文章を書く練習は、少なからず(むしろかなり大きく)今の自分に生きているように思う。
その言葉があったから、「私は合格点を取るために勉強をしているんじゃなく、誰かに伝えるためにこの文章を書いているんだ」と思うことができた。
点数ではないところに、ささやかな楽しみと生きがいを見出すことができた。

今まさに受験生という学生は、必死な気持ちでラストスパートを駆け抜けている最中だと思う。
当時の私みたいに、がむしゃらに東大を目指している人もきっといるだろう。
私はちゃんと4年で卒業したけれど、大学のコミュニティにはほとんど属していなかったし、東大卒としてのアイデンティティはあまり持ち合わせていないかもしれない。
なので偉そうなことは言えないのだけど、一つだけ言えることがあるとすれば、「努力できる人は強い」ということ。
どうしても受験は、合格・不合格かという明確で冷徹な結果に左右されてしまいがちだけど、大人になってから思うのは、どう考えても結果よりそこに至るまでの経過の方が、人生において価値がある。
社会に出れば、自分の当たり前がいかに当たり前でないか、ハッとする場面に多々遭遇する。
その中でも私が感じたのは、「みんながみんな、努力できるわけじゃないんだ」ということ。
死に物狂いで勉強していた学生の自分は、頑張ることが当たり前だと思っていたけれど、世の中に出れば、努力なんてそこそこに、楽をすることばかり考える人もいるし、実際楽をしている人も沢山いる。
別にそれが悪いことだなんて全く思わない(私も少し気を抜けば楽したくなる)。

でも、努力できるということは、それだけで強いんだと気付く時がきっとくる。
今はわからなくても、努力できた自分に感謝する日がきっとくるから、それだけ信じて、今できる最大限の努力をしてほしい。
たとえ望んだ結果にならなくても、反省だけして後悔はせず、強い大人になってほしい。
今の価値がわかるのは、今よりずっと後だけど、それでも今を大切に。


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