新宿ミュンヘン

私が初めてお酒を飲んだのは、20歳の誕生日を迎えた、その0時だった。

「こうと決めたら絶対にこう!」という頑固さがあるので、お酒は20歳になるまで飲むものかと心に決めていた。
だから、20回目の年を重ねる瞬間まで、取っておいたのだ。

初めて飲むビールはとても香ばしくて爽快で、味わったことのないおいしさだった。
家族からは「強いだろう」と言われていたので、体に合わなかったら落ち込んじゃうなと内心心配していたのだけど、お酒の方も20歳まで待った私の執念を受け入れてくれたみたいで、一安心。

お酒との相性はすこぶる良かったものの、当時の私はどうしようもなく友達が少なくて、飲みに行ける人などほとんどいなかった。
じゃあ家で一人で飲もうかと思っても、ケチな財布が私の欲を許してくれない。
そんな私を誘い出してくれたのが、叔父だった。

叔父といっても本当の叔父ではなく、いや確かに親戚なんだけど、私の母の叔父だから、私にとっての叔父ではない。
正確には大叔父と呼ぶらしいが、母が叔父のことを「お兄ちゃん」と呼んでいたので、自然と私にとっては「叔父」になった。

地元から上京した私は、東京に身寄りがなく、唯一東京に住む親戚がその叔父だった。
私はその人のことを「隆おじさん」と呼んでいる。
隆さんという叔父さんなので、隆おじさん(そのままだ)。

隆おじさんは、高校を出てからずっと東京に住んでいて、都庁で土木関係の仕事をしていた。
だからおじさんと会うのは大抵新宿で、都庁の方から歩いてくるおじさんと、西口の地下広場で待ち合わせ、小田急百貨店に行ってお買い物するのが定番だった。

おじさんは生粋の百貨店ラバーだった。
何を買うにも百貨店、ルミネなんて絶対に行かない。
独身で子供もおらず、お金に余裕があったのもあるんだろうけど、とにかく躊躇なく買い物をする人で、お気に入りのブランドの店員さんとは「おう」と挨拶するくらい常顧客だったので、「こんな世界もあるんだなあ」と私はうわの空のまま、おじさんが買ってくれるあれやこれやを両手に抱えていた。

最初の頃は、もらったものを謙虚に受け取るだけだったのに、人間というのは怖いもので、ちょっとずつ欲が出てくる。
何度も会ううちに、「小田急は私の好みとは違うんだけど……」なんてことを思い始め、おじさんが「これ似合うんじゃないか?」と提案してくれる小田急メイドの服たちを、「うーん」とことごとく渋っていた。
すると、しびれを切らしたおじさんが、「しょうがない、伊勢丹に行くか」と言ったのだ。

まだ新宿伊勢丹がどんな場所か知らなかったので、半信半疑で新宿3丁目までの地下道を歩いて行った。
伊勢丹のデパ地下に入ると、たしかに「小田急とはなんか違うな」というのが雰囲気で伝わってきたものの、その時点では「広いだけなんじゃないか」と大きな差は分からなくて、ふーんとしながらエスカレーターを上ったのをよく覚えている。
でも、2階のアパレルフロアに着いた瞬間、「なんだここは……!」と目を見開いた。
都会で生まれ育った人なら、そんなに驚かないのかもしれない。
だけど地方出身の私にとって、初めての新宿伊勢丹は、「きらきらしたものたちのワンダーランド」で、目に入ってくる全てが私の心をときめかせてくれた。
何を買えばいいのか、そもそも買えるものがあるかも分からないのに、そこにいるだけでわくわくする気持ちをお裾分けしてもらったような、前向きさがあった。

それからというもの、おじさん的にはあまり伊勢丹は好きではなさそうだったけれど、西口で待ち合わせてから伊勢丹まで歩き、そちらで買い物をしてから、小田急に戻ってくるというルートに変えてもらった。
伊勢丹のタータンチェックを持って小田急に帰ると、ちょうど夜ごはんの時間になる。
新宿には、名店からよく分からないお店まで、飲食店はごまんとあるけれど、我々が行くお店はいつも同じだった。
それが、「ミュンヘン」だ。

ミュンヘンは、小田急のハルクという別館に入っているビアホール。
あまりに頻繁に通っていたので、いつも決まって店内右奥のボックス席に通された。
ビアホールなので、ドイツのビールが売りなんだけど、私はいつもピルスナーを1杯だけ飲んで、その後はエビスのハーフ&ハーフ(普通のビールと黒ビールを混ぜたコーラみたいな色のビールだ)を飲んでいた。
結論、日本のビールは美味しい。
対する隆おじさんは、私に合わせてビールを1杯だけ飲み、そこからはずっと日本酒だった。
日本酒を置いているビアホールなので、もう何でもありという感じなんだけど、フィッシュ&チップスをつまみに熱燗を飲んでいるおじさんを見ると、揚げ物とアルコールの組み合わせは、万国共通、人類のDNAだと妙に納得した。

隆おじさんは、やたらお酒に強い人だった。
お酒に強いし、お酒が好きな人だった。
だからおじさんとお酒を飲んでいると、永遠に飲んでいられそうで、終わりが来ないような気がして、楽しかった。
ちなみに言うと、おじさんは超がつくほどのヘビースモーカーでもあった。
ミュンヘンは店内でタバコが吸えたので、それもあのお店を愛用していた大きな理由の1つなのだけど、お酒が進むにつれておじさんのタバコもペースを増して、気づいたら灰皿が山盛りになっていた。
私はタバコを吸わないので、それだけの量を吸うおじさんの健康がすこぶる心配だったけれど、空気を吸うようにタバコを吸っているから、おじさんにとっては空気みたいなものなんだなと、全部許すことにした。

当時は月に2回ほど会っていた(だからミュンヘンにも2週間に1回行っていたことになる)けれど、よくもそんなに話すことがあったなあと今では不思議に思う。
とはいえ、私はおじさんから聞かれた質問にぽつぽつと答えるだけで、大抵はおじさんの語りを聞いてばかりいた。
なぜなら、おじさんの話が好きだったから。
おじさんは、私の知らないことと知りたいことを、沢山知っていた。
私が「この人絶対性格悪い」と決めつけて何も知ろうとしない政治家のこととか、私が生まれる前の昭和がどんなに素敵な時代だったのかとか。
おじさんが語る世界や時代の話が、とても面白かった。

特に覚えているのは、ミュンヘンに「ニシンのマリネ」というメニューがあって、それを頼んだ時に話してくれた昔の家族の話。
ニシンは、東京ではあまり馴染みがないかもしれないけれど、故郷の北海道では割とメジャーな魚で、特におじさんが生まれ育った海沿いの町ではよく食べたらしい。
おじさんのお父さん(私にとっての曽祖父)は漁師で、早くに海で亡くなったから、それからは私の祖母(おじさんにとっての姉)が母親代わりになっておじさん兄弟を育てていた。
季節になると、兄弟みんなで海まで昆布をとりに行って、その昆布でニシンを巻いて、昆布巻きを作ったらしい。
田舎らしく、中身がぎゅっと詰まった太っちょな昆布巻きは、頬張るとお米が何杯でも食べられるくらい、絶品だったそう。
目の前にあるニシンのマリネを食べながら、「もっとうまいニシンがあるんだぞ」と自信満々に話していた。
ずっと東京暮らしだし、親族の中では割とアウトローなところもある人だったけれど、家族との思い出を語るおじさんはとても懐かしそうで、ニシンのマリネを頼むたびに「もっとうまいのになあ」と言うから、それだけ大事な記憶だったんだろうと思う。
祖母や隆おじさんを含め、我が家の先輩たちが、家族みんなで昆布をとりに行った時代があったんだということも、自分のルーツを知れて嬉しかったし、いつか本当に美味しいニシンを食べなきゃなあと思った。

大人になって色々な人と関わるようになったり、何か壁にぶつかったりすると、やっぱり知らないよりは何でも知っていた方がいいよなあと思う。
だから、知ることはそもそも大切なんだけれど、どうやって知るかも同じくらい大切だ。
その意味で、私はおじさんから教えてもらったことに、すごく誇りを感じている。
おじさんの切り口、フィルター、感情が詰まった物事を知れたことは本当に貴重で、それはただの事実や情報ではなく、ちゃんと物語だった。
教科書やネットをひらけば、一応事実がわかるし情報だっていくらでも手に入る。
でもそこに語り手はいない。
語り手がいないと、情報はただのモノゴトで、味わいを感じない、ストーリーにはならない。
何かを知るには、目に見える表面だけでなく、その奥底まで広がる根の張り方を理解できるようにならないと、つまらないのだ。
私はこの世界の、表面より下の部分をどれだけ知っているんだろう。
そんな考えに耽ると、ふと隆おじさんとのミュンヘンの夜を思い出す。

ここまで書いてくると、何だか隆おじさんがもうこの世の中にいないみたいに見えるけど、おじさんはまだ生きている。
でも、数年前に定年退職し、40年ほど住んだ東京を離れ、地元に帰ってしまった。
なので会える機会もめっきり減って、ミュンヘンにも行かなくなった。
改めて調べてみたら、ミュンヘンは全席禁煙になってしまったらしい。
知らないところで、時は進んでいるんだなと感じる。
あのミュンヘンのレンガっぽい壁に寄りかかりながら、おちょこ片手にタバコをふかして、フィッシュ&チップスのチップス部分ばかり食べていたおじさんは、とてもかっこよかった。
良い人に出会うと言うけれど、それはつまり、良い語り手に出会うことなんじゃないかと思う。
そんな出会いを忘れずにいたい。

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