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三島由紀夫と終戦

友人から突然、僕が大昔にブログに書いた記事を読んだとの連絡をもらいました。実は本人もすっかり存在を忘れていたのですが、ちょうど終戦に関する内容だったので、このnoteでもご紹介したいと思います。
三島由紀夫はかく語りぬ(『ECONO斬り!!』2008年12月7日)

終戦から75年が経ち、気が付けば三島が自ら命を絶った年齢まであと5歳。インタビュー時の年齢である41歳まではあと1年!そのせいか、ブログ記事を書いた20代と比べて、彼の言葉の重みが増しているように感じます。

<以下、ブログ記事からの転載>
本書は昭和を代表する偉人・巨人達の肉声を伝えたNHKの人気番組『あの人に会いたい』を編集して紙におこした文庫本です。

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湯川秀樹、土光敏夫、升田幸三、白州正子、盛田昭夫、柳家小さん、阿久悠など、各界を代表する錚々たる顔ぶれの生の声が収められているのですが、一番私の心に響いたのは冒頭の三島由紀夫の言葉でした。以下一部本文より抜粋してご紹介させて頂きます。内容もさることながら、話し言葉だというのになんて美しい日本語なんだ、と思わず感動させらせました。

「終戦の時は、わたくしは終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に、わたくしの家族が疎開をしていまして、終戦の詔勅自体については、わたくしは不思議な感動を通り越したような空白感しかありませんでした。

それはかならずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界が、このままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかったのです。そして、戦争が済んだら、あるいは戦争に負けたら、この世界が崩壊するはずであるのに、まだまわりの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。それを普通の家庭の中で見たのでありますから―まわりの家族の顔もあり、まわりに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある―それがじつに不思議でならなかったのであります。

しかし、法律関係のアカデミズムの若い学者たちは、『これから自分たちの時代が来るんだ、新しい知的な再建の時代が始まるんだ』と、誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。

わたくしの今までの半生のなかで、二十歳までの20年は軍部が―軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが―いろいろなことをして、あそこまで破滅的な敗北へもっていってしまった。その後の20年は、一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはなんら知的再建というものに値するものはなかったのではないか。

昭和になって40年間、41歳のわたくしは、二十歳の時に迎えた終戦が、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということを考えるひとつの目処になっております。これからも何度も何度も、あの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光―その時点を境にひとつも変わらなかった日光は、わたくしの心の中にずっと続いていくのだろうと思います」
(15~17ページ)
「『葉隠れ』の著者は、いつでも武士というものは、一か八かの選択の時は死ぬ方を選ばなければいけないということを、口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに、武士であっても、結局死ぬチャンスをつかめないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。

それを考えますと、今の青年にはスリルを求めることもありましょう。あるいは、いつ死ぬかという恐怖もないではないでしょうが、死が生の前提になっているという緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっています時に、なんか生の倦怠といいますか、ただ人間が自分のためだけに生きるのに卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。

それでも、人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬというほど人間は強くない。というのは、なんか人間は理想なり何かのためということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも何かのためということがかならず出てくる。それが昔言われた“大義”というものです。そして、大義のために死ぬということが、人間のもっとも華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方と考えられていた。

しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんてものがいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味であるというような心理状態がないわけではない」
(19~20ページ。太字は安田による)

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