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【エンタメ日記】『帰ってきた あぶない刑事』『碁盤斬り』『映画 からかい上手の高木さん』編 2024/05/28~05/31

2024/05/28(火)

【邦画新作】『帰ってきた あぶない刑事』

TOHOシネマズ新宿・スクリーン4で鑑賞。平日夜なので客入りは少なかったけど、熱心なファンの方が複数いたらしく、かなりベタなギャグにも小さな笑いが発生していた。

しかし舘ひろしって何なのだろう。本作の舘ひろしは、日本人の心の中に宿る舘ひろしをさらに数割増したかのような、極太の舘ひろしだった。柴田恭兵のほうは年相応のおじいちゃんだったので、その舘ひろしぶりはさらに際立っていたし。たとえば「大人の男の色気」みたいな月並みな言葉では言い含むのが不可能なほど、ただただ舘ひろしという概念は肥大していた。
たしかに、思い返せば『ゴールデンカムイ』も『鋼の錬金術師』も、舘ひろしは舘ひろしという概念として存在していた。もっともこれらの作品は、役者全員ともに戯画的なオーバーアクションだったので、突出して目立たなかっただけである。『ヤクザと家族』ではひとりだけ浮いていたのも、作中のリアリズムと舘ひろしなる概念との不調和のせいかもしれない。『アルキメデスの大戦』はどうだったっけか。ともかく、この域にまで到達する役者は、なかなかいない。たとえば往年の高倉健も概念に近かったが、まだ言語化できる範疇ではあった。しかし舘ひろしを別の言葉で表現するのは難しい。すごいことになっている。

2024/05/29(水)

【TVバラエティ】フジテレビ『FNS鬼レンチャン歌謡祭』

内輪ノリがとにかく苦手なのだが、その極北みたいな『FNS鬼レンチャン歌謡祭』を面白く見ることができたのはなぜなのか。先に断っておくと、元である『鬼レンチャン』自体は毎回欠かさず見ており、ボク自身は「熱心な視聴者」という立場で内輪の中にいる。ただそれでも、いち番組の内輪ノリを外部(まったく別の番組のフォーマットを拝借したゴールデン特番)に持ち込んで大手を振るう所業は、たとえ内輪の一員だとしても嫌気が差すのが常だ。しかし『FNS鬼レンチャン歌謡祭』には、内輪ノリなのに嫌らしさを感じなかった。
その理由は端的に、番組の作り手が内輪ノリであることを自覚しているからではないか。外部には意味不明なものを一切の説明もなく提供したうえで、千鳥とかまいたちによるワイプからのツッコミによって「これは内輪ノリですよ」と示している。ここでのワイプは外部の声の代弁だ。番組のフォーマットの中に「外部の声」を組み込んでいることこそが、内輪ノリの自覚そのものであろう。
あともうひとつ重要なのは、たとえ内輪ノリだとしても、そもそも演者のパフォーマンス自体のクオリティが異様に高い。池ちゃんとしか呼ばれず本名すら謎の少女が何度も登場し、それ自体は「世間的には無名の人がやたらとフィーチャーされる」という内輪ノリのギャグである。ただそれ以前に、池ちゃんのあまりのハイレベルな歌唱力に圧倒されるため、『鬼レンチャン』の文脈を知らない人でも満足するのである。
また、今回はハリウリサの『ヴィルマ』(女手ひとつで育ててくれた母親について自ら作詞した曲)が最大のヤマ場にしているため、そこへの流れとしてオモシロよりも感動に重点が置かれていた。彩青(若手演歌歌手)などのいじられキャラも「今日はいつもと違う」という評価になっていたし、実際に歌も三味線もすごかった。キンタロー。やりんごちゃんなどオモシロ寄りの芸人も、笑いへの飽くなき探求心によってとんでもない破壊力を見せつけていたし。そんな中で、あえて従来通りのいじられキャラに徹していたのがササキオサムだった。歌手の人が担うポジションではない気もするけど。

2024/05/30(木)

【邦画新作】『碁盤斬り』白石和彌監督

TOHOシネマズ日比谷・スクリーン4で鑑賞。

白石監督はカメラワークにこだわる人なのだと改めて気づいた。というか、トリッキーなことをしようとする癖がある。メインで喋る人物がスクリーンの角のところに小さくいたりするのだ。カメラの前をエキストラが横切るのも昔ながらの技法ではあるのだが、こう頻繁にやられると煩わしさが勝ってしまう。その一方でキャラクター造形にはこだわりが無いようで、柳田格之進(草彅剛)をはじめ萬屋源兵衛(國村隼)もお絹(清原伽耶)も、いつの間にか心の内が劇的に変化していることが多々あり混乱する。根本的な問題として、源兵衛と弥吉(中村大志)を情けないボンクラみたいな人物にしてしまってよかったのか?

2024/05/31(金)

【邦画新作】『映画 からかい上手の高木さん』今泉力哉監督

TOHOシネマズ新宿・スクリーン7で鑑賞。

大前提として今泉監督は、高木さんのからかいを純朴な恋愛感情の表れとは微塵も思っていないのだろう。そもそも今泉作品に、そんな単純な恋愛など登場したことなどないのだから。しかし『からかい上手の高木さん』の実写化において世間から求められている”恋愛”と、今泉監督の信じている”恋愛”は、あまりにも乖離している。そこで本作では、生々しさを排除したきわめて人工的な空間に創り上げ、ここで描かれる恋愛もまた人工的な嘘であると暗に示している。永野芽郁の喋り方が仲間由紀恵そっくりなのも、そのせいだ(仲間由紀恵は『TRICK』からずっと、人工的な演技では突出した才能を見せ続けている)。原作準拠なのか映画オリジナルなのか調べていないのだが、「告白は暴力」「(からかいは)へなちょこパンチじゃない」といった今泉作品的な”恋愛”の生々しさはセリフで提示されるのみで、物語には反映されてはいないし。いい年した大人がおままごとみたいな両片思いを成立させるためにはそれしかなかったのだろう。今泉監督は自身の矜持を保ったまま求められた仕事を確実にこなしたわけである。

しかしそれでも、高木さんの無自覚な邪悪さを剥き出しにしてほしかったという気持ちはある。高木さんファンではなく今泉ファンが望んでいたのは、「告白は暴力」の真髄なのだから。なお、室内シーンでの撮影におけるセンスは今回も今泉監督の力量が発揮していた。男女2人きりの薄暗い廊下を曲がると生徒たちで騒がしい明るい日差しの入った廊下へとワンショットで繋ぐシーン。ひとつのパターンではあるが、学校という空間を的確に視覚映像として捉えた名ショットであろう。

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