中国の歴史 5

 金の勢力が拡大する中、チベット系の民族である夏が存在感を増していた。
 中国初代王朝と同じ国号を持つ夷狄の国は、漢族の神経を逆撫でしたようだ。しかし、宋は他国の名称に文句を言えるような力は失って久しい。この国は歴史上、西夏と呼ばれる。

 西夏は金に服属する。金は宋を滅ぼすには至らず、戦線は停滞。勢力の均衡が訪れる。
 均衡を打ち破った力はさらに北方、モンゴル草原から現れた。

 1206年、いくつのも部落に分かれていたモンゴル人をテムジンという名の首領が統一。チンギスハンと名を変え、世界征服を宣言する。
 チンギスハンは手始めに西夏を攻撃。モンゴルとは違い、防壁に囲まれた西夏の都市を相手に、苦手分野である攻城戦の技術を磨く。

 この時期のチンギスハンにとって、一番の敵は西夏ではなく金であった。西夏への攻撃もそこそこに金への敵対をはじめる。金は南へと終われ、首都を北京(当時の名称は燕京)から開封に移す。

 西夏を滅ぼした年、チンギスハンが没する。それでもモンゴルの勢いはとまらず、金を滅ぼす。
 金滅亡ののち、モンゴル内で王位争いが起こる。しかしフビライが早期に解決したため、国力の衰退は起こらなかった。

 フビライは首都を北京に移し、国号を元と定める。フビライのもとで生産は狩猟から農業に移り、経済力が発展。日本にまで遠征するも、これは失敗した。
 南宋は首都が滅びた後も亡命王権が抗戦を継続。先頭に立ったのは文天祥という、もとは文官だった男だ。文天祥は病弱な体に鞭打ってゲリラ戦の指揮を行う。モンゴルの武将もこれには手を焼き、南宋は命を長らえた。

 文天祥がモンゴル軍に捕えられたことで、宋の滅亡は決まった。
 1279年、南宋滅ぶ。南の地方政権となってからも文化は発展を続け、朱子学を生んだ王朝もここに滅んだ。

 元は土地の名前ではない。歴代の国号は、創始者が最初に報じられた土地(劉邦の漢、李淵の唐など)を使っていた。しかし、元は佳名(縁起のいい名前)だ。このあとに続く明、清も佳名である。

 元の中原支配は最初から不安定なものだった。漢文明を敬うような政策がとられたかと思えば、遊牧民時代の生活を復活させようとする派閥が力を握ることもある。漢文明ひいきと遊牧生活ひいきの権力争いは、科挙が行われたり廃止されたりを繰り返した事実に現れている。

 漢族のほうでも、モンゴル人による支配は不満だった。彼らは宗教をよすがとして集まり、結社を作り、反乱を起こす。紅巾の乱である。
 紅巾軍はいくつかの勢力にわかれるが、特に力を持ったのは朱元璋が率いる勢力だった。
 1368年に朱元璋は皇帝を名乗り、元の首都を落とす。元の王室はモンゴル草原へと帰っていった。

 朱元璋は社会の底辺から成り上がった人間だ。底辺から皇帝に成り上がったことでは漢の劉邦と同じだが、劉邦よりも濃く、陰湿な暗さを持っていた。
 劉邦は即位したのち、建国の功臣たちを粛清している。彼らはいずれも荒々しく、個性的な人物ばかり。劉邦になら使いこなせるが、息子の明帝の手には余るし、国を簒奪されるかもしれない。とはいえ、粛清に積極的だったのは劉邦本人ではなく皇后の呂氏だが。

 朱元璋は自身を劉邦に重ねていた節がある。彼が即位してまず行ったのも、建国の功臣たちの粛清であった。
 だが朱元璋は劉邦とは違う。皇后に言われるまでもなく自ら積極的に、徹底的に、功臣たちを殺し尽くした。

 この時代、どうしても目に入るのはチンギスハンの大立ち回りだ。世界征服という言葉が冗談に聞こえないのはチンギスハンとルルーシュ・ランペルージュくらいのものだろう。どっちも厨二病からの人気高そう。

 チンギスハンの支配した地域は、最盛期のローマ帝国よりも、アレクサンドロスの制覇した地域よりも広い。だが、これは彼一人の武勇ではなく、モンゴル軍団ありきの成果であることは否めない。

 陳舜臣先生はモンゴル族興隆の要因に、集まりやすく、離散しやすい遊牧民の性向をあげている。
 狩猟生活をする彼らは有能なリーダーについていく利益を肌で理解している。強いリーダーが現れれば、こぞってその人物のもとにつく。だから、爆発的に勢力が拡大する。

 それ以外の原因として、指揮系統とステップ草原の拡大があげられる。狩猟における指揮系統は戦争でそのまま使える。つまり、彼らは生産活動そのものが軍事訓練なのだ。
 遊牧民は馬の餌となる草原の中で暮らしている。12世紀ごろからは気候の変化でステップ草原が拡大し、モンゴル人の生活可能な地域はロシアまで広がった。これが彼らの大遠征を支えたひとつの原因である。

 また、民族の興隆期にあたっていたこともあるだろう。民族にせよ国にせよ、人と同じで興隆の時期もあれば衰退の時期もある。興隆期の力はどの民族もすさまじいものだ。しかし、漢民族のような農耕民族は興隆期であっても、土地に縛り付けられている。
 しかしモンゴル人は土地に執着しない。その上、馬という機動力も持っている。この民族が興隆期にあたれば、その機動力を活かしての大遠征も可能になる。

 チンギスハンが偉大な人物であったことに異論はない。しかし、やはり彼の偉業はモンゴル軍団ありきのものだ。

 ローマ帝国創始者のユリウス・カエサルを評した言葉にこんなものがある。
『カエサルは優れた資質を持っていたが、欠点がなかったわけではなく、悪徳にさえ無縁ではなかった。
 それでもなお、いかなる軍隊を率いても勝者となったであろうし、いかなる国に生まれても指導者になっていただろう。』

 支配域ならば人類史上一位のチンギスハンだが、個人としての才覚ならば、軍事政治ともにカエサルには及ばなかっただろう。

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