小説「ぐくり」⑥
日曜日、早朝に目覚めた川口は、準備したトランクを手に、待ち合わせ場所のニューユニオン路地前に向かった。
近藤から預かった金は、分散して持っていくことにした。トランク、財布、上着に縫い込んだ物、靴底に隠した物・・・。同じく、拳銃はズボンの腰の内側に袋を取り付け、銃把だけがズボンの上から出るように工夫しておいた。
トランクの中には、着替えと洗面用具、そして何よりジュラルミンの弁当箱にライカが入れてある。持ってきたフィルムは合計3本。うち、一つは既に本体に入れてある。本当はもっと持ってきたかったのだが、表向きは警護であり、写真はあくまで観光用、と言うのが建前だけに、あまり持ってきて怪しまれてもいけない、と思ったのだ。
ゆるゆると来たつもりだったが、待ち合わせ時間の小一時間も前に着いてしまった。仕方なく、上着のポケットからチェリーを出し、火を点ける。
4本目のチェリーが吸い終わり、吸殻を靴で踏みつけている時に、小瀬を乗せたビウイクが滑るようにやって来て、川口の前で停まった。
「川口さん、来ていただいてありがとう! さあ、どうぞ、乗って乗って!」
後部座席のドアから、半身を乗り出すようにして小瀬が顔を出した。川口は一礼して車に乗り込み、トランクを膝に乗せて小瀬の隣に腰掛けた。
「今日は、上野から特別列車で向かうんですよ。代議士先生方とは、そこで待ち合わせしとります。ま、言わずでものことだとは思いますが、川口さんはあくまで警護。余計な口は利かず、聞いたことは忘れる。いいですね?」
「ええ、僕も難しいことは分かりませんし・・・。それに、過分の報酬には、口止め料も含まれているのでしょう?」
「ははっ! さすがに飲み込みがよろしい! 見込んだことだけのことはありますな。ま、一つ、そういうことで。これが無事に終わりましたら、この先の川口さんのことについても二、三考えていることもありますから、大船に乗ったつもりでいて下さいよ。」
そういうと、小瀬は豚のような鼻をヒクつかせて、くくく、と笑った。
「いや、いろいろと、よろしくお願いします・・・。それと、警護の人間にさん付けもおかしいでしょうから、これよりは川口、とお呼びくださいよ。」
「や! そうさせて頂けますか! それでは、私のことは部長、と呼んでいただけますか? 会社の中でも腕利きという触れ込みでご紹介しますので・・・。」
「わかりました・・・部長。」
「うむ、川口、よろしく頼むぞ!」
小瀬は、口では申し訳ないようなことを言っておきながら、いざとなると何の躊躇いもなく、言い慣れた口調で川口を呼び捨てにした。小瀬という人間の底の浅さが見えたような気がして、川口は見えないようにうなずきながら、口元に苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
上野駅の周辺は、日曜だというのに大変な混雑具合だった。前の駅は地震で消失してしまい、バラックの仮小屋で運営していたものが、つい最近、鉄筋コンクリートの新駅舎が完成したことで、街並みも変わっていた。この混雑も、ひと目新駅舎を見ようと集まって来た人たちらしかった。
駅の前には、既に車が3台横付けにされており、いかにも代議士と言った貫禄の3名が、それぞれのカバン持ちを従えて、大声で談笑しているのが見えた。近藤と共に資料室で見た覚えのある顔を確認し、川口はまさに、勇気百倍と言ったところだった。
最後列に車が止まるや否や、小瀬は運転手がドアを開ける間もなく、転がるように外へ出て、3人の代議士の方へ小走りに向かった。川口もドアを開け、急いで後を追う。
「ややっ! 先生方! お待たせしてしまって、誠に申し訳ない!」
「なに、構わんさ! こっちが予定より早く着いたまでのこと。そんなことは、いちいち気にせんでよろしい!」
そう言ったのは、一人だけ和装の、柏谷善三だった。3人に中では、一番年長で、国会で議長を務めたこともあり、代議士としての格ももっとも上だった。
「そうそう。まあ、申し訳ないと思うなら、その分は旅を盛り上げてもらえれば、ね?」
茶色の背広に山高帽の井上格三郎は、そう言って軽口の同意を竹谷時利に求めた。竹谷は笑顔を見せながらも重々しくうなずいて、小瀬を見つめた。
「はいはい、それはもちろんのことです! ささ、こちらへ。今日は特別客車を手配しておりますから、ゆるりとお過ごしください。」
小瀬が先頭に立ち、代議士とそのカバン持ち合計6名が後に続く。川口はその後を進み、駅構内を通り抜けた。改札は駅務員室側の物を利用し、小瀬が手を挙げただけで全員が素通りできたことを考えると、話はすでに通っているようだった。
一行はそのままホームへ進み、女性車掌の待つ、ひと際豪華な外装の客車へと乗り込む。乗降段は金色で、車両の床は全面絨毯が敷かれていた。座席は大部分が取り払われ、代わりに豪華な革張りのソファがいくつか置かれている。奥の方に小振りのバーカウンターのようなものが設えてあり、その向かいには普通の座席が二脚残されていた。川口はあそこで移動することになるのだろう。
「おお、これはまた、豪華な造りだねぇ。」
柏谷が感嘆の声を上げて周囲を見回した。全員が追従のうなずきを返し終わると、それぞれが座席に着く。すぐに女性車掌が現れて、トングで全員におしぼりを配って回った。
「仙台には夕方6時に着く予定ですが、長旅ですから、どうぞ楽にお寛ぎください。」
小瀬が揉み手をするように3人に挨拶をし、カバン持ちはその隣のソファ席に腰を下ろした。それぞれが帽子を取ったり、上着を脱いだりしていたが、川口は無言で一番奥の座席に向かい、端から全体を見通すように腰掛けた。腰の拳銃がこのままでの、長時間の移動は辛いことになりそうだった。すでに尻の右側に痺れたような感覚がある。川口は靴の中で足の指を動かしながら、いくらかでも楽な姿勢を探そうと試みたが、どれもどこかに負担が掛かる。こまめに体を動かすしか方がないようだった。
乗り込んでから15分も過ぎ、一向にそれぞれ酒が配られた頃に、ホームでベルが鳴り、やがてゆっくりと列車が動き始めた。
とうとう、列車と共に事態が動き始めた。ここからは完全に己一人が頼りだ。一瞬たりとも気が抜けないし、本来の目的も忘れてはならない。今はまだ、世間話で談笑している最中のようだが、本題が何で、どのような取り決めがなされるのか、見極めなくてはならない。
車窓の流れと共に、川口の思考も流れていた。これからの期待と不安はもちろんあったが、一番に思い出されるのは志津子の悪戯っぽい笑顔だった。
「ぐくり」⑥
了。
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