第一コリント人への手紙から第15章12〜28節「キリストの復活、私たちの復活」
4月21日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は第一コリント人への手紙から第15章12〜28節「キリストの復活、私たちの復活」。4月はキリストの復活をテーマとしているが、今日はパウロの手紙から。
この中の中心となる箇所は17節で「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」。ここで言う空虚とは、イエスの復活がなければ、ただただ死んだだけとなって、結局は悪の勝利となってしまう。すなわちイエスは神の子として、救い主であることを行動で示した。ローマ人への手紙第1章3〜4節では「御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、四聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである」と語っている。 さるキリスト教系大学で守衛さんが聖書を読んでいた。そこを通りかかった大学教授が「どこを読まれていますか?」と問うた。守衛さんは「ヨハネによる黙示録です」と答えた。教授は「ほう難しい箇所ですね。読んでいてわかりますか?」と返した。守衛さんは「はい、わかります。最後にはイエス様が勝つと書いてあります」。これが聖書の結論である。善は悪を超え、命は死に勝り、光は闇を包み込み、愛は憎しみを寄せ付けない。それがイエスの復活による勝利である振り返ってみればアダムとイブによる罪で、人は全て死なねばならなくなった。それがキリストの復活によって、人は罪の中にいない状態になった。初穂とは畑にできた最初の作物であるが、イスラエル🇮🇱では神への捧げ物であり、収穫の前兆であった。リビングバイブルでは「しかし事実キリストは死人の中から復活した。復活が約束される何千何百万人の人の第一号となった」とある。
十数年前の小学生キャンプで、ある少年が蝉の幼虫を捕まえてきた。その幼虫は羽化寸前であった。蝉は蛹にならない。蝉の幼虫の抜け殻はよく見るが、リアルに羽化の瞬間を見れることは滅多にない。その決定的瞬間を大人も子供も息を詰めて観察していた。羽化を終えて飛翔した蝉を追って、子供たちは駆け出した。自分はその光景を見て、地中で暮らす幼虫時代と、羽化して飛び立つ蝉の世界は何と違うことかと感慨に耽った。そういう意味で、復活の命と身体を与えられると言う喜びは、死と永遠の滅びとは全く異なる。キリストにあって眠りに落ちた人すなわち過去に亡くなって人までも、一人の人イエスの死からの復活によって、われわれの罪が許されたのである。